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"信者"と揶揄されるヲタクについて

 世の中には様々なヲタクがいる。しかし、ヲタクというものは時に周囲から蔑まれ、疎まれる存在である。特にサブカルチャー方面のヲタクというものはその対象になりやすく、アニメ、ボーカロイド、それが派生したVTuber(正式にはバーチャルYouTuber)のヲタクというものが槍玉に上げられやすい。
 今回はその中でも、熱狂的•狂信的•排他的にコンテンツを推している「信者」について思っていることを書いていく。


•そもそも信者とは?

 信者という語彙自体には、元々は特定宗教に対する信仰心を持つ者、というような意味しかない。しかし、それが派生して様々な意味合いで使われている。
 以下、信者の派生的な意味の引用である。

① メディア作品(漫画、アニメ等)などを崇め信仰する者。
② ①が更に広義に解釈された、「特定の人物・団体・物品・事象などを絶対視・神聖視し、それに関するネガティブな事実にすら逃避思考や陰謀論などで擁護する者」の意。
③ ②が更に先鋭化した「特定のものを好きな人その物」「(攻撃者視点で)標的を攻めない者」の意。

というものである。更に続けて概要を引用する(文章の内容整理の為に改変あり)。


 信者とは一般的に宗教の信奉者のことを指すが、現代日本では宗教だけでなく特定の個人や団体、製品などに盲目的・狂信的に入れ込んでいる人間も信者と呼ばれることが多い。

 ニコニコ動画内では、ある特定の動画の熱烈な狂信的ファンのことを指す。しかし信者の中には執拗に他のジャンルの動画を否定したり、動画とは直接関係のない身内ネタのコメントで荒らすといったことも少なくなく、反感を買うケースも多い。

 元は悪質なファンを指す言葉とされているが現在はファン全体を指すことが多い。5chなどの匿名掲示板においては○○ファンといった使い方は一般的ではないため、『ファン』よりも『信者』がメジャーな単語として使われている。これは特定の作品が好きな人物と言うよりはどの派閥に属しているかと言う意味が強い。
 また、○○アンチ=△△信者というイメージに発展し、実際の宗教のように異なる作品の信者間で対立することも珍しくない。

 ちなみにファン(Fan)はFanatics(狂信者)から来ており、アンチの主張でたびたび見られる『批判に対して冷静なのがファンで反抗的なのが信者』と言ったような違いがあるわけではなく、本来はむしろファンの方が熱狂的な意味を帯びている。

 あまり好意的なニュアンスを含まない単語ではあるものの、類似語の『厨』と違い必ずしも蔑みを含んでいるような言葉でもなく、ファン自らが信者を名乗ることもあるためあまり敏感に反応するような単語ではない。

といった内容である。意味、概要ともにいずれもニコニコ大百科からの引用である。(https://dic.nicovideo.jp/t/a/信者)

 ここで気になるのは、「ファン≒信者」という認識である。ファンというものは、純粋にそのコンテンツを楽しむ人のことで、その度合いについては問われない。それが更に熱を帯びたものが「ヲタク」になる。信者というものは元々宗教に関する語彙でしかない為、対象に対して全肯定的なのである。
 宗教の内容に間違いがあるかどうかまでは問わないが、基本的に宗教の信者というのは全てをありのままに受け入れていて、その開祖を絶対視している。そして、ファンやヲタクは時には批判もするし、少なくとも「≒」ではない。ただ、対象に対して全肯定的な、信者のような側面がある人が存在する、というだけである(それを全肯定ヲタクと呼んでいる)。

•信者は何故避けられてしまうのか

 経験上、スポーツ観戦のヲタクには全肯定的な存在はあまり見かけないが、アニメやVTuberのヲタクにはそういう人がたくさんいるのを見てきた。
 これはスポーツ観戦のヲタクには血の気が多い人が多い、という根本的な性格も多少は関係あるのだろうが、それだけではないだろう。

 先程、「ファン≒信者」という認識が一般的にあるということを書いた。それは、「ヲタク≒信者」という認識にもなるということである。その上で、「対象に対して全肯定的な、信者のような側面がある人が存在する、というだけである」と書いた。
 しかし、その信者、所謂全肯定ヲタクこそ、活動が精力的なのである。推している対象に非があろうと、それが日常生活に支障が出るような事案であっても、「それも一つの個性だよね!」とポジティブに広めようとするのである。短所は長所、とよく言われるが、限度を超える場合が多々あるのだ。
 当然、対象を多くの人に知ってもらおうと「布教」する心理は否定しようがない。しかし、悪い点は悪いと言わないと直るものも直らなくなる。最も、VTuberは全肯定のヲタクを好み、少しでも批判するとアンチとみなして敬遠する人が多いので全肯定じゃないとどうしようもない、と言ってしまえばそれまでだが…それが第三者から見たら嫌悪の対象にしかならず、新規顧客を呼び込めない理由だと何故気付かないのだろうか。自分の非を直して褒めてもらえれば一石二鳥だということを分かっておらず、目先のことしか考えていないVTuberは多い。

 話が逸れてしまったが、信者が避けられるのはやはり全肯定なイエスマンであるということになる。そして、その対象となるコンテンツも、信者が多ければ多い程避けられる。

 更に悪質なのが、「批判を全削除して全肯定に見せかける」パターンである。これはVTuberに限らず配信業界で昔からある傾向で、基本的に承認欲求の為に自らの時間を犠牲にしている為にその意にそぐわないものは消してしまうのである。
 これによって、新たにその配信者を推していこうと思った人が「全肯定でなければ駄目」という錯覚に陥り、意図せず信者に成り下がるのである。通常なら違和感を感じるであろう事柄(全肯定しかいない世界線)に疑問を持たなくなった者の末路である。

 信者がいつまでもいなくならず、アンチがいなくならない訳である。最早永遠のテーマだ。そして、アンチの方が物事の本質、コンテンツの本質をよく見ている場合が多いのが皮肉である。

•信者をやめるとどうなるの?

 次に、その信者をやめるとどうなるのか、という話に移る。勝手に一人で信者としてコンテンツを推し始めて、誰とも交流のないままコンテンツを推すのをやめたとしても何の問題もないのだが、信者同士は惹かれ合いたいと思う人がどうも多いようである。中には、信者同士での繋がりが密になり過ぎてコンテンツが二の次になる本末転倒なパターンもある。そういう人達に対しては、お前ら結婚しろよっていつも思う(大抵は男同士の関係が友情を超え始めるという地獄)(ただ、ホモに対する否定ではない)。

 昔の事例で考えると、オウム真理教の場合は脱退した信者を殺害していたり、連合赤軍の場合は「総括」と題して思想の統一を建前上の目的として暴力を振るっていたりしたらしい(この他の凶悪事件については本筋に関係ないので省略する)。
 そして、そもそも戦国時代に代表されるように、謀反した家臣を殺害するといったことは当たり前だった為、最早問題にすらならない。信者と似た事例ではある。

 
 それでも、さすがに現代の業界では信者をやめたところでは命までは取られないはずだ。そうなったら精神異常でしかない。


 では、信者をやめるとどうなるか。
 確かに、同志だったリスナーだったり、その対象だった配信者からの対応は以前より冷たいものになるかもしれない。しかし、それが何だというのか。見たくなくなったら見なくなるし、それだけに過ぎないのではないか。結局信者をやめたところで、どうにもならないのである。
 なので、推したい時に推して、推したくなくなったらそれはそれで仕方無いと思うのである。


 本筋と関係あるかは分からないが、自分が所属していた因幡組では、推し変に非常に過敏である。同じ箱内の推し変ならまだマシだが、他の箱内のライバーに推し変した人は指詰めとさえ言われている。実際にはそんなことは起こり得ないが、かつては威圧の激しい組だったと言える。ただ、最近は推し変があまりにも増え過ぎて態度を軟化させているようではある。

•終わりに


 とにかく、信者になるのもならないのも、推しを推すのも推さないのも個人の自由である。「推しは推せる時に推せ」と言うが、無理して推す必要も、無理して信者になる必要もない。
 むしろ、特定の信者になるよりもフリーランスのように広く浅く、見たいものだけを見る方が賢い。
 単推しだとしても、信者だとしても、周りに配慮を忘れず、厄介扱いされないよう、計画的な推し事を心掛けるべきだろう。

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