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18歳で感染性心内膜炎になった私が「ハンセン病」を記録する理由

 私が「ハンセン病」を記録する理由について語るためには、大学1年生に経験した闘病体験について書く必要があると思い、今まで公にしてこなかった闘病体験を経て私が何を考えたのか、まとめることにしました。

 私は開発途上国で活躍できる助産師を志しており、大学1年生の夏休みにアフリカのガーナ共和国に渡り、現地のクリニックで6週間の医療ボランティアをしていました。現地では、限られた医療環境の中で懸命に人々の命と向き合う医療従事者や各国から集まった医療学生に囲まれ、本当に充実した日々を送っていました。

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 しかし、4週間ほど経った時から高熱と下痢が続くようになりました。はじめはマラリアを疑い、2度検査をしたのですが陰性。帰国してからも高熱と下痢が続き、大きな病院で精密検査をしたのですが、なかなか原因が見つかりませんでした。解熱剤を内服しながらキャンパスに通う日々を送っていました。そんなある日、夜中にトイレに行こうとした時に異変が起きました。「あれ?真っ直ぐ歩けない、おかしいな。」と思いながらも何とかトイレに辿りつき、ズボンを下げようとしたのですが、左手で下げられない…。気がついたら部屋の廊下で気を失っていました。

 翌朝(正確に言うとずっと気絶していたので14時になっていました)、当時住んでいた学生マンションの寮長さんの声で意識を取り戻し、病院に連れて行ってもらいました。ここまで読んで気づいた方も居るかもしれませんが、脳梗塞を発症していました。脳梗塞を発症していると告げられた時は、「脳梗塞!?脳梗塞って年寄りがなる病気やん!うち、まだ18歳やで?」と、どこか他人事のように受け止めていました。私の場合、感染性心内膜炎により血栓が脳に飛んたことが原因でした。そして、直ぐに心臓の緊急手術をする必要があることを告げられました。その時、自分が置かれている状態を詳しく知らされていなかったのですが、左顔面と左上肢が動かなかったことから深刻な状態であることは理解できていました。手術前に隣でとても心配している母に何か言わないとと思い、「森さん(高校生の時に写真展の被写体として協力してくれたハンセン病回復者)や操さん(大学生の時に学生ヘルパーとしてお世話になったALS患者)に出会ってて良かったな。今の自分の状態を受け入れられへんってことは、森さんや操さんの存在を否定することにつながるよな。」と言ったと思います。

 後から聴いた話ですが、担当医が母に①人工弁にした場合出産することが難しくなること、②手術中に心臓を停止し人工心肺に移行するため、脳の血管が破れ、植物人間になる可能性があること、③最悪の場合死亡する可能性があることの3つを告げたそうです。幸い手術は成功し、人工弁ではなく私自身の弁を残してもらえました。しかし、脳梗塞により左顔面と左上肢に重度の麻痺があったため、リハビリに専念することとなりました。1ヶ月前まで志高い各国の医療学生とアフリカの医療現状について熱く議論していたのに、顔面麻痺により呂律が回らなくなっていたため毎日発音訓練があり、ベッドの上で「パン屋でコッペパンを買いました」「ジープはでこぼこ道を走れます」という言語療法士から指定された文章をひたすら復唱している自分のギャップに戸惑い、泣きながらリハビリをしていました。

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 少しだけ話を変えて、病気になる前の私について振り返りたいと思います。私は写真が好きで高校生時代は「糸しい〜誰もが自分らしく生きることのできる社会の実現に向けての写真展」というハンセン病回復者やLGBTQ、ホームレスなど日本社会で「マイノリティ」と呼ばれる人々に焦点を当てた写真展を企画していました。資金をクラウドファンディングで集めたり、新聞にも取り上げてもらうなど、自分から見てもキラキラした高校生だったと思います。その活動が評価されて慶應義塾大学にAO入試で合格して…。言ってみれば右肩上がりの人生を送っていました。

 それが、病気になったことで、自分の中で思い描いていたことを実現することができない現実を突きつけられることになりました。倒れる直前まで、当時所属していた学生団体の代表に立候補することに決め、準備を進めていましたが、緊急手術を受け1ヶ月の入院、退院後もリハビリに専念することとなったため、その思いは叶いませんでした。思い入れがあった分、挑戦もできなかったことは本当に悔しく、その思いは焦りへと変わっていきました。
 また、退院前にはわからなかったのですが、手術した心臓に逆流があることが、退院後しばらくてからわかりました。途上国医療に携わる上では、逆流があるとリスクが高くなります。ガーナで現地の人々と喜びを分かち合う経験をしたこともあり、私は現在も途上国で活躍できる助産師を志しています。周りからは「大学の先生となって、学生たちに夢を託すのも新たな考え方だよ」と言われましたが、その言葉は私に響きませんでした。
 今後、一生病気と付き合っていく不安や持病が原因で夢を諦めないといけないのではないかという恐怖と向き合う勇気がなく、ふとした瞬間に「このまま居なくなったらどうなるのだろうか?」という思いが頭を過ぎることも度々ありました。

 このように病気を経験したことで初めて「痛み」を知りました。人生で初めて死を目の当たりにし、生きることの意味と向き合うことになりました。

 自分らしく生きるとはどういうことなのか?光の当たるところで自分らしく生きることは簡単です。でも、光が当たらないところで自分を信じ、前に進んでいくことは本当に難しい。
 そういうことを何も知らなかった高校生の私が企画した写真展に被写体として協力してくれたハンセン病回復者で社会復帰された森さんは、私に「自分らしさとは、自分の弱さを受け入れることである」と言ってくれました。
 また、ハンセン病患者でもあった歌人明石海人の歌集「白猫」の序文に次のような言葉があります。
ー深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない。ー

 病気になって、生きることに価値を見出せなくなるくらいしんどかったとき、森さんの言葉と、明石海人の言葉を何度も何度も自分に言い聞かせて、その言葉の意味を自分自身にも問い続けてきました。そして、ハンセン病という病気になったことから差別され、家族からも引き裂かれ、社会から隔離されてしまったという、あまりにも恐ろしくあまりにも理不尽な出来事についても考え続けてきました。

 そうしているうちに、私の中に一つの思いが湧き上がってきました。
「ハンセン病回復者の人の今を記録して、理不尽な出来事の中にあっても、自分らしく生きようとした人たちのことを残したい。そして、一人でも多くの人にその人たちの生き方を伝えたい。」
 それをすることが、今後の私の人生の中で、私自身に何かが起こったとしても、私が私らしく生きていくことを支えてくれる力にもなってくれると確信したのです。

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 それからは機会を見つけては全国の国立ハンセン病療養所に通い、色んな方に出会いお話を聴いてきました。
 このnoteでは、ハンセン病問題と所縁のある人(回復者、家族、支援者、研究者など)にインタビューを行い、「なぜ、このような状況が生まれたのか?」「何がそうさせたのか?」私が感じた思いを文章にまとめていこうと思います。

 光の意味とは、明るい場所では感じにくく、暗闇を経験することによって、初めてわかるものだと思います。一人でも多くの人が、自分の中にある光と、どんなときも自分に当たっている光に気づけますように。


 


 




 

 






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