見出し画像

ハンセン病回復者との出会いは、私を支えてくれているのではなく、守ってくれている。 中村大蔵さん

 記念すべき第1回目は、初めて私にハンセン病回復者の方を紹介してくれた特別養護老人ホーム園田苑の理事長である中村大蔵さんです。中村さんに出会わなかったら、私がハンセン病問題にこれほどまでに関心を持つことはなかったでしょう。ハンセン病問題への入り口を私に与えてくださった大切な恩人です。中村さんがなぜ100回以上も療養所に通い続けているのか、その思いをまとめました。

私:初めて中村さんにハンセン病療養所に連れて行ってもらったときに、中村さんから田端明さん(ハンセン病回復者)の「癩(らい)よ、ありがとう。癩になったことで光を失ったけど、沢山のことを得られた」という言葉を教えてもらっていたので、田端さんにお会いできることをとても楽しみにしていました。でも、実際に会ってみると田端さんは私が出会った中で最も重い後遺症をお持ちの方だったので、どう接していいのか戸惑ってしまいました。
 そんな時、中村さんがごく自然に田端さんに接する姿を見て、ものすごく衝撃を受けました。私は田端さんの病室の入り口で立ち止まってしまったのに、どうして中村さんは対等に接することができるのだろうって…。

中村:私も初めは田端さんの光を失った目を直視することができなかったですよ。でも、何回も通っているうちに信頼関係を築けるようになりました。

スクリーンショット 2021-02-18 23.07.38

誰も教えてくれなかったハンセン病問題に惹きつけられて

中村:ハンセン病と言うよりもらい病と言った方が私にとっては身近に聞こえるのです。私は徳島出身なので、幼少期に四国八十八箇所のお寺にらい病に効くというお札がたくさん貼ってあったのを覚えています。その当時の日本社会には、忌避すべき病気、触れてはならない病気、交わってはならない病気を発症している患者という雰囲気が漂っていました。そんな中、たくさんの患者が、八十八箇所巡りをしていたようです。 
  今でも覚えているのが、私の祖母は陶器や茶碗を購入した際に煮沸してから使用していました。はじめは「何でそんなことするんだろう?そんなんじゃ食堂でご飯も食べれないのに」と疑問に思っていましたが、今から振り返ると祖母の中に、らい病に対する警戒心があったのではないか、と思っています。でも、その当時の私に誰もらい病のことを教えてくれませんでした。   
   私は大人になるにつれ、誰からも教えてもらえなかったらい病への関心と興味が強くなっていきました。 

日本社会とは無縁の社会があること

中村:初めて長島愛生園に訪れたのは1987年の正月2日でした。その当時の私は特別養護老人ホーム園田苑の設立準備に疲労困憊し、体調を崩していました。突如、この機会を逃したらハンセン病療養所に行けなくなると思い立ったのです。病気になったことがきっかけで、初めてハンセン病療養所に行くことができました。
 私が最初に驚いたことは、正月らしさがひとつも無かったこと。行く時に乗った新幹線も岡山駅の構内も正月で賑わっていたのに、島に一歩入ると、着飾った人もいない、正月を祝う雰囲気もない、普段と何も変わらない「日常」を送っている人々がいました。同じ日本の中に、正月と全く無縁の社会があることに衝撃を受けました。
 もうひとつ驚いたことは、子どもの声が何一つ聞こえなかったこと。療養者の結婚の条件が男性の断種だったことと、正月は職員の子どもが通う保育園が休みであったことから、子どもの声が聞こえず、異様さが漂っていました。この訪問では療養所の人とは交流出来なかったのですが、私の中に「何なんだろうな、これは…」という違和感が生まれました。そして再度訪問することを決めました。

ハンセン病回復者に魅せられて

中村:2度目の訪問では、療養者との交流を図るために浄土真宗のグループに紛れて訪れました。療養所にいる浄土真宗の信徒さんとの交流会に参加した時に出会った、下位あさをさんが「この歳になって親鸞聖人(浄土真宗の宗祖)の教えがわかるようになった」と言ってくれました。
 そしてもう一人が田端明さん。「癩よ、ありがとう。悶え苦しむような痛みが襲ってきて、それが嘘のように晴れた時に、私は一切の光を失いました。しかし不思議なことに物が見えていた時よりも良く見えるようになったのです」
 私はてっきり、こんな苦しい生活、こんなしんどい生活を送っている、「そんな所にどんなツラ下げて来たんや」と言われると想像していました。そのため、下位さんと田端さんの言葉に衝撃を受け、言葉の意味を自分自身に問いかけるようになりました。それからの訪問は、下位さんと田端さんを毎回尋ねるようになり、その年は結局、合計で7回訪れました。

スクリーンショット 2021-02-18 23.07.12

産まれたての我が子を見ることも抱くことも許されず

中村:ある時、下位さんの部屋にお邪魔した時に長島愛生園に来るまでの長い長い道のりを話してくれました。下位さんは福井県に嫁いで、妊娠中にらい病を発症しました。自分が産んだ子どもを見ることも抱き上げることもできず、子どもと引き裂かれ、離縁させられて実家に返えされたそうです。下位さんはその時のことを振り返り、自分のことを復讐の鬼のようだったと言っていました。

病む子をば、置いて帰る、冬の空

中村:それからは、闘病生活に付き添ってくれる実のお父さんと2人でらい病に効くと言われたありとあらゆる民間療法を試ましたが、何ひとつ効かなかったと言っていました。その当時、草津の温泉にらい部落(湯之沢部落)というコミュニティがありました。軽便鉄道でその部落に向かおうとしたところ、既に下位さんの顔にらい病の症状が出ていたことから、乗車を断られ、雪深い草津まで、お父さんと歩いて行ったそうです。草津の湯に到着すると、下位さんのお父さんは「病む子をば、置いて帰る、冬の空」という句を詠み、休むことなく、下位さんを置いて来た道を一人で帰って行ったそうです。「山を降りていく後ろ姿を見たのが父の最後だった」と下位さんは言っていました。
 当時の下位さんは、自分を置いて行ったお父さんを憎んだそうです。しかし、私に会った時にこう言いました。「わては、何て薄情な女やったんやろう。わては、自分のことしか考えてなかった。ずっと一緒に着いて来てくれた父の気持ちを最後まで知ることができなかった。」

中村:これまで計100回以上、ハンセン病療養所に足を運び、田端さんや下位さんなど多くの療養者と交流をしてきました。どうして療養所に行くのか?とよく聞かれるのですが、私にとって療養所とは人は何のために生きるのか、考えさせられる場所なのです。人間はとてつもなく非人間的な面を持ちつつも、とてつもなく優しくなれること教えてもらえる場所なのです。

スクリーンショット 2021-02-18 23.08.02


中村:私は、ハンセン病療養所に「今」を逃したら行く時期はないと思っています。「今」という時期は人それぞれ違います。でも、後10年したら療養所の半分は消滅するでしょう。療養者の平均年齢も高くなり、話せる人も居なくなるでしょう。ハンセン病療養所が形を留めている間に、療養者が話せるうちに行くことをおすすめします。
 ハンセン病問題と出会い、ハンセン病回復者と出会ったことで、「私にとっての生きることの意味」と「ハンセン病当事者にとっての生きることの意味」を考え続けています。私は、ハンセン病当事者に生きることの意味とは、最大最高の価値を自分自身の中に見出すことだと教えてもらいました。まだ、私自身、最大最高の価値を自分自身の中に見出せていませんが、その意味を考え続けていきたいです。今日も、これからも。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?