この記事では、ハンセン病支援センター職員の加藤めぐみさん、友人の芝池さん、山城さん、弟の修さんの証言や、『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)から、森さんが社会復帰した頃から国賠訴訟で勝訴判決が出るまでの活動を中心にお伝えします。
社会に出るという覚悟
佐藤:療養所ではなく、社会に出て生活したいと願い、社会復帰する人は多くはありませんでしたが、邑久高等学校新良田教室(療養所にある高校)卒業生の多くが社会復帰をされました。森さんもその一人です。
加藤さん(支援センター職員):森さんは、26歳の時に長島愛生園を退所することになったんですけど、結局15歳から11年間も入所してはったんですね。「もう病気治ったから退所したい」って言ったら、お医者さんがね、「お前、その顔で、その手で退所できると思ってるんか」って言われたらしいんですよ。普通の入所者の人やったらそこまで言われたら、めげますやん?
でも、彼はすごくその辺は割り切ってて、「治ったんやったら退所する」ということで言い切って、退所しはったんですよ。
芝池さん(友人):森さんは何でも笑い飛ばす人で、いつも周りを和やかにする父のような優しい存在でした。療養所の年下の看護師さんに恋をしたという話を聞いたことがあります。療養所の建物の裏で会っていたけど、向こうは健常者だったから、自分は病気を患っているということもあって成就しなかったそうです。
社会に出てきた時に双子の弟さんにすごい助けられたという話を聞いたことがあります。大阪に出てきた時はちょっとヤバイところでお仕事をしたこともあって、夜逃げ状態で逃げてきたこともあるんですって。「その時に双子の弟さんが助けてくれたんや」って言ってました。
加藤さん(支援センター職員):あんまり学歴も問われず、できることって言ったら、やっぱり新聞配達やったんやろうね。昔は、新聞配達する人なんかは本当に人手がなかったから。履歴書は適当に書いて、高校卒業してるけれども、岡山県の新良田教室なんて書いたら療養所の高校だってばれるから適当に書いて持って行ったらしいけど、あんまり見もせんと、即採用。その日から仕事やったらしくて(笑)
加藤さん(支援センター職員):「社会保険ないんやったら他の所行くで」って言って、自分で交渉した話聞いたとき、すごいな〜と思って。私ら20代のとき自分の老後のことなんか全然考えてなかったから。
医師からの心無い言葉を受けて
これでやっと俺は人間として扱われるんやな
修さん(弟):国賠訴訟の判決が出た時は親父も含めて兄弟みんなでよかったね、よかったねって万歳した。敏治さんが浮かばれるからって、みんなで音頭取りながら喜んだ。敏治さんがこんな差別される必要がなくなる、そう思った。
つづく…