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私のおじいちゃん② 森敏治さん

この記事では、ハンセン病支援センター職員の加藤めぐみさん、友人の芝池さん、山城さん、弟の修さんの証言や、『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)から、森さんが社会復帰した頃から国賠訴訟で勝訴判決が出るまでの活動を中心にお伝えします。



社会に出るという覚悟

佐藤:療養所ではなく、社会に出て生活したいと願い、社会復帰する人は多くはありませんでしたが、邑久高等学校新良田教室(療養所にある高校)卒業生の多くが社会復帰をされました。森さんもその一人です。

敏治:高校を卒業してから園内作業をして退所に向けての準備金を貯めた。当時、自治会の部長補佐とか、不自由者の付き添いとか、いろんな仕事をしながら、少ない給料をこつこつ貯めて、社会復帰に向けて資金をつくった。月給5千円やった。今でいうと、そやなあ、5万円くらいになるんとちゃうか。高校を卒業したら、少年舎から青年舎へ移るんやけど、そこの青年舎に入る人らは「一生(療養所から)出られない」って言われてたからか、なんの目的もなく将来を諦めてダラダラ生きてる感じやったな。でも、俺は(確定診断をしてもらった京大の医者から)「治る」って言われてたから、俺は出ることしか考えてなかった。退所するために、その頃は、菌検査は希望すれば、毎月受けることができたんや。俺は毎月検査してもろたよ。「退所したい」って医者に言ったら、「その顔で退所できると思っているのか」ってしょっちゅう言われた。別に医者も悪気があって言ってるわけやなかったと思う。心配してくれて言ってくれたんとちゃうかな。退所に向けて菌検査を月1回して、それを1年間続けたんや。最後には、お尻の肉を取って検査された。1センチくらい深く皮膚を削られたんや。そりゃ痛かったわ。今も痕が残っているんとちゃうかな。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

加藤さん(支援センター職員):森さんは、26歳の時に長島愛生園を退所することになったんですけど、結局15歳から11年間も入所してはったんですね。「もう病気治ったから退所したい」って言ったら、お医者さんがね、「お前、その顔で、その手で退所できると思ってるんか」って言われたらしいんですよ。普通の入所者の人やったらそこまで言われたら、めげますやん?
でも、彼はすごくその辺は割り切ってて、「治ったんやったら退所する」ということで言い切って、退所しはったんですよ。

敏治:1968年、26歳の時、ようやく退所できた。出る前に双子の弟に電話したら、「出てきたところで家があるわけやないんやから、どうするねん」って言われてな。俺は、「とにかくここから出たいんや。仕事を見つけるから」って説得したら、弟も俺を信じてくれた。30歳過ぎたら職が見つからんやろうと思ってたから、20代のうちになんとか社会復帰することが出来てホッとした。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

芝池さん(友人):森さんは何でも笑い飛ばす人で、いつも周りを和やかにする父のような優しい存在でした。療養所の年下の看護師さんに恋をしたという話を聞いたことがあります。療養所の建物の裏で会っていたけど、向こうは健常者だったから、自分は病気を患っているということもあって成就しなかったそうです。
社会に出てきた時に双子の弟さんにすごい助けられたという話を聞いたことがあります。大阪に出てきた時はちょっとヤバイところでお仕事をしたこともあって、夜逃げ状態で逃げてきたこともあるんですって。「その時に双子の弟さんが助けてくれたんや」って言ってました。

森さんと芝池さん

敏治:当時まだ独身やった大阪にいた双子の弟の文化住宅に、とりあえず身を寄せたんや。そこにいる間に新聞広告を見て職を探した。弟からは、そのうち「いつまでおるんや?」って言われるしな。1日も早く職を見つけないといけないなと思った。そやけど、履歴書を書くと素性がバレるから、なかなか職が見つからんかった。ようやく新聞配達の仕事を見つけて住み込みで働くことになった。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

加藤さん(支援センター職員):あんまり学歴も問われず、できることって言ったら、やっぱり新聞配達やったんやろうね。昔は、新聞配達する人なんかは本当に人手がなかったから。履歴書は適当に書いて、高校卒業してるけれども、岡山県の新良田教室なんて書いたら療養所の高校だってばれるから適当に書いて持って行ったらしいけど、あんまり見もせんと、即採用。その日から仕事やったらしくて(笑)

敏治:最初の職場は豊中市(大阪府)で、最初1ヶ月くらいは4~5人で雑魚寝して生活してた。つらいけど、まあしゃあないわな。そのうち一人で暮らせるようになったよ。新聞配達の仕事は、午前3時に起きて始まる。新聞配達だけやなくて、朝刊にチラシ入れたり、集金、セールス、折り込みチラシを入れたり、色々や。毎日、午後5時過ぎまで仕事を続ける。当時の給料は2万円やった。俺は、厚生年金、健康保険のある職場で働きたかったから、働き出してから社会保険がないとわかっては、職場を変えた。最初に聞きづらかったんや。ここもあかん。あそこもあかんと職場を転々とした。別に仕事場で嫌な人がおったからやないよ。単に社会保険の問題だけや。それで住まいも10回くらい変えてる。最後に辿り着いた職場には、就職する前にようやく社会保険のことを聞けた。そしたら、「今、考えてる」って言われて、「今すぐ保険加入してくれ」って頼んだら、すぐに手続きをしてくれた。それでようやくその新聞販売所に落ち着いた。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

加藤さん(支援センター職員):「社会保険ないんやったら他の所行くで」って言って、自分で交渉した話聞いたとき、すごいな〜と思って。私ら20代のとき自分の老後のことなんか全然考えてなかったから。

医師からの心無い言葉を受けて

敏治:社会復帰して10年目の頃、バイクの事故で肋骨を骨折して入院したことがあった。地域の病院でハンセン病歴を告げた。そりゃ、緊張したよ。それで先生から「療養所に帰った方がいいんとちゃうか」って言われたんや。それで俺はカッとしてな。「ハンセン病は治ったんやから、俺は帰らんわ」ってきつい調子で言うた。そしたら、黙って治してくれた。今まで病歴がバレたらどうしようかってビクビクしてたけど、結局、病院に受け入れてもらえるんやってわかった。ほんまに嬉しかったわ。それからは診察してもらう医者には病歴を伝えるようにしている。医者にはハンセン病歴を告げても差別されないっていう確信が持てたから。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

山城さん(退所者の友人):ワシ、森ちゃんからこの話聞いたとき、胸がすごく熱くなってきて勇気が湧いた。そうや。ワシはもう治っているんやから、社会復帰してもいいんや!堂々としとったらいいんや!そう思えるようになったんや。森ちゃんみたいにはできんけど、ワシかってそれに近いことはできるやろ。そんなことを教えてくれた森ちゃんのことは、そやから今も心から尊敬しているんや。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)
森さんと山城さん

これでやっと俺は人間として扱われるんやな

敏治:1996年に「らい予防法」が廃止になったんは知ってたけど、俺にとっては2001年5月11日の熊本地裁での国賠訴訟の勝訴判決の方が嬉しかった。新聞で見て、訴訟やってたこと初めてこの時に知ったんやけどな。でも、これでやっと俺は人間として扱われるんやなって思ったよ。「解放されたんや」「これからは堂々と生きていけるんや」って思ったよ。おかしなことに、隠してたつもりやったのに、昔の新聞屋仲間から、「(国賠訴訟に勝訴して)よかったなあ」って言われた。「なんや、お前、知ってたんか」って笑い合ったな。それから神戸の弁護士に電話して、岡山地裁の国賠訴訟の原告団に入った。そして、ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会に仲間入りして活動を始めたんや。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

修さん(弟):国賠訴訟の判決が出た時は親父も含めて兄弟みんなでよかったね、よかったねって万歳した。敏治さんが浮かばれるからって、みんなで音頭取りながら喜んだ。敏治さんがこんな差別される必要がなくなる、そう思った。

敏治:いちょうの会の活動が忙しくなってきたから、とうとう新聞配達の仕事を辞めたんや。その時、60歳やった。社会復帰してから34年、俺はずっと新聞配達の仕事をやり遂げたよ。退所してから、一度もハンセン病療養所の入所者とも退所者とも交わることはなかったんやけど、その活動を通して、退所者仲間と交流する機会が増えた。2008年は、「ハンセン病問題基本法」を求める嘆願書名の活動を大阪府や兵庫県でして、初めてマスコミの取材を受けて、名前も顔も出したんや。7つ下の弟は、そのことをインターネットで見たみたいで応援してくれた。ハンセン病にかかったのは、自分だけでほんまに良かったと思ってる。もし、弟もそうやったら、親はもっと辛かったと思うしな。

『いのちの輝き ハンセン病療養所退所者の体験記』(大阪府社会福祉法人恩賜財団済生会支部大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター発行)

つづく…


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