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知った上で本当の理解をするということが大切 田村保男さん

国が行った隔離政策によって、長い年月を岡山県の長島愛生園で過ごさなければいけなかった人たちがいる。田村保男さんもそのひとりだ。
昭和6年5月11日に山口県で生まれ、小学校4年生でハンセン病を発病した。病気になったことで、岡山の離島に隔離され、今日まで70年という月日を長島愛生園で送っている田村さんが、どういう人生を送ってきたのか、知りたくなり、お話を伺った。

幼少期での思い出

田村:若い頃は、戦争中やから勉強、全然してないんよ。竹やりでやっこらやっこらばっかりで。学徒動員でね。軍隊に馬がおるじゃろ?その馬の餌の係を学校でさせられるんよ。朝早よう起きてな、暗いうちから鎌を持って、秋吉台に上がるんよ。小学生から連れて行くんよ、何人か組み作ってな。わしら上級生やから子どもみんな連れてって、世話をせんなあかん。朝、早う行って、昼間草刈って、干して乾かしたら軽うなるから。ほんで子どもはみんな縄で背中に負わすわけ、学校まで帰るのに。子どもやから、縄を力いっぱい引っ張って持つやろ?笹がね、するするするする草が抜けてしもうて、帰った頃にはあらせんねん。道路、ずーっと草が落ちとるんよ(笑)

小学校4年生でハンセン病を発病

田村:神社に段々があるんよ。ほんで、みんな夕方そこに座って、歌を歌いよった。そしたら足で拍子とるやろ?右足が鈍いのよ。ほんで帰って、親父に「足が鈍いんじゃ」言うたら、親父が変な顔したんを未だに覚えとるんよ。小学校4年生の時に。変な顔したんよ、親父が。親父がハンセン病やったから。ほんで色んな医学書読んどるから。足が鈍くなるのを知っとるから、変な顔したんよ。

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ハンセン病国立療養所長島愛生園へ

田村:白衣を着た保健所の人間が何人もしょっちゅう来て、(療養所に)行け行け行け行け言うて来て、ほんで行くことになって、夜に自分の家を出たんよ。近所には挨拶もせんとな。ほんで、「お召し列車」(隔離のための強制収容列車)に乗ったんよ。あの頃、汽車がものすごい混む頃やから、(汽車に乗りたい人たちが)「乗せてくれ、開けてくれ」って言ってな。車両に書いとる「伝染病者輸送」に気づくと、みんなギクっとして逃げてしもうとった。
今でもよう覚えとるんが、(電球が切れて)汽車の中は真っ暗で、電気がつかんかったんよ。そやから、駅員に新しい電球を要求したんよ。そしたら、駅員がな、古い電球を汚いと思うとるから、ホームでカーンっと割るんよ。後で始末せなあかんのに、過剰よな?誰も触っとらんのにね。よう覚えとるわ。良え気持ちはせんかった。
1953年の4月11日にここ(以下、長島愛生園を意味する)に来たのを覚えとる。桜が咲いとったんよ。もう人生これで終わりかなと思ったな。

邑久高等学校・新良田教室の1期生に

田村:1953年にらい予防法(新法)の改正で、高校ができたんよ。わし、22歳で年齢が年齢じゃけど、何も用事がないし、学校行こうかな思うて、問題集買って勉強したんよ。だから、最初分数なんかも全然知らんかったんよ。年齢が年齢やったからね、欲が出て、勉強ばっかり。親に言われてやるわけじゃないから、自分から進んでやるわけやから。高校生活は自分が思ったことができるんやし、味わえんことが味わえたから楽しかった。得意科目は歴史やな。

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先生に文房具を消毒液につけられる

田村:消毒液が職員室の入り口に置いてあるんよ。ここは店が一軒しかないから、文房具なんか買えないんよ。そやから、先生に頼むんやけど、先生がまともに受け取ってくれんのよ。一回、消毒液に漬けて、乾かして。ほいで受け取るんよ。おかしいなと思ったけど、どうしようもない思うとる、諦めがついとるから闘争にならんかったけど。
「修学旅行させてくれ」言うたけど、わしら一期生はできんかった。偏見が激しい頃やったから。何期生からかできるようになって、スキーとか行きよったよ。

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産むこと、そして生まれることを許されなかった

田村:30歳の時に入居者の人と一緒になった。向こうが結婚してくれ言うから。わしは結婚する気がなかったけどな。奥さんは10歳年上やったよ。気の強い女の人でな。早ように亡くなった。(亡くなって)14、5年になるかな。
子どもは産んだって育てられへんのやから、諦めてたんよ。子どもができたらみんな堕ろされるんよ。産むことができない、社会に出てったらいいけどね。ここでは、みんな殺されるんよ、赤ちゃんらはね。生まれてオギャーって言うやろ?あれ言うたら、人間扱いになる。オギャーまで言わん前に堕ろされたら人間扱いにならんのよ。それでもオギャーって言うのがおるんよ。それをみんな殺しとるんよ。それでホルマリンに漬けてね、ようけ棚に並んでたよ。らい予防法の改正のときに全部埋められたんよ。

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社会から断絶されて

田村:ここの海は、漁火が見えるんよ。あれが「社会」やなって思ってな、悩みよったよ。何回泣いたもんかね。
学生の頃は色んな希望があったわな。わし、汽車が好きなんよ。あの、乗り物が。学校卒業したら鉄道員の汽車のな、運転をやろうと考えとったけど。蒸気機関車やから、あの頃。あの、ゴーッていう音が何とも言えんね。それがね、子どものときに遠足があるやろ?山登り上がったら、日本海を通る山陰線の音がよう聞こえて、それで憧れたと思うわ。今は自分が希望したらどっこへでも行けるけど、昔はそうはいかんかったからね。

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ゲートボールで全国優勝

田村:でも結構、楽しかったよ。ゲートボールが一番楽しかった。全国周ったりな。うちのチームは有名じゃったんよ。よう優勝したんよ、全国優勝。青森から鹿児島まで遠征で行ったついでに観光して帰りよったんよ。だから、神社とか大抵の良えものは見とるんよ。だから、外におったらあんなことは出来んわね。遊んじゃおれんのやから。だから、かえって幸せじゃったかもわからんわな?病気だから不幸せとは限らんからな。元気なもんでも不幸を感じている人がおるんやけんな。人間の気持ち次第よ、不幸か不幸じゃないかっていうのはな。

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田村:ゲートボール他には、盲人会の代筆やら世話係をしとった。夜に岡山に絵の勉強に行ったりしたしな。今は、たまに電動車で、鴨がようけ来るから見に行ったり、紅葉見に行ったりしよる。老人会の会長しとるから、午前中にみんなとコーヒー飲んだりするのが楽しみぐらい。釣りしたり、バドミントンしたり色々やっとたら、いつの間にか90なっとった。

隔離政策について、思うこと

田村:「強制的な隔離がなくてもここの療養所に入りたい」いう気持ちになるような場所を作りゃ良かったんよ。なんでもかんでも詰めこみゃええちゅうもんでもないからね。戦時中でお腹が空いてどうにもならんのに、ここで働かされて栄養失調でみんな死んだんよ。だからな、無理やり入れとかんでも良かったんよ。家帰ってご飯食べれる人も居たわけよ。「自分の家に帰れる者は帰って、戦争が落ち着くまで頑張ってくれ」って言えば、ここで死なずに済んだ人も居ったと思う。そういう意味でも隔離政策は間違っていると思う。国会にも陳情に行ったしな。国賠訴訟で国が過ちを認めた時はそりゃ嬉しかったよ。解放されたわ。外にも自由に出れるようになったし、外からも来るようになったからね。

ハンセン病ではない妹は義務教育も受けられず、もうひとりは、自ら命を絶った

田村:わし、妹が2人おるんよ。妹なんか中学辞めさせられたんよ、義務教育。兄貴が病気や言うてな。妹は全然病気じゃないんやで。学校を風邪で休んだんよ、そしたら茶封筒が送られてきて、不登校や、学校来んでええて。
もうひとりの妹は、病気になってここに来て、わしと一緒に新良田教室に入学したんよ。その後、社会復帰してな、結婚したんよ。子ども産んで病気が騒いだから(長島愛生園に)帰ってきたんよ。旦那が亡くなってたから、子どもを見てもらう者がおらんから、子どもを親戚に預けたわけ。ほんで思うように行かんから、あそこの崖(長島愛生園にある自殺の名所)から飛び降りたんや。誰もよう探さんかった。わしが見つけた。一発でわかったんよ。枕の下に遺書があったから。そこ(自殺の名所)に行ったら、草履が揃ってて。職員に海岸の横から降りて見てもろた。落ちとった。もう一回見たら二度と見れんかった。頭、窪んでな。可哀想なやった。なんで相談せんか思ってな。

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田村:世界遺産(療養所を世界遺産に登録しようとする活動のこと)とかどうのこうの言うとるけど、なかなか難しいからな。本当はあんまり、わし賛成じゃないのよ。なんでか言うたらな、三代くらいまでこの病気は忘れられん。結婚なんかできやせん。だから、こういうもの(療養所)が残ると、「あそこの家は病気なった」言うて見るわ。みんな、思い出すわ。この病気の偏見はな、三代せんと無くならんいうんは本当よ。

本当の理解をすることが大切

田村:差別や偏見は絶対無くならんと思うのよ。偏見、差別は誰でも持ってるよ。昔から全然変わってない。病気をしたら怖がるっていうのは本当なんよ。だけど、知った上で本当の理解をするということが大切やと、わしは思うんよ。

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