ブレインストーミングなう。

#子どもが未来に希望を持てる大人のあり方ー 「辛さを抱えた子ども達」と「希望を届けるメディアsoar」 から二夜開け。

まだ頭のなかはストーミング中。 過去の話やら何やらが吹き荒れていてすごく読みにくいです。


ファシリという空気をしてきました。

僕らのグループディスカッションで話していたことは、

正しいことと強さ
親の役割と大人の役割
普通と変
自立
学校の中の居場所
子ども達にも選択の自由はあるのか。

ここからもっと深いところに突っ込んでいけたらよかったと思うのだけれども、モヤモヤしている。

この中でも「普通」と「選択」と「大人の役割、親の役割」と言うのがかなり刺さった。

ここ最近、「普通」の強さとそれを隣人に強いる傲慢さのようなものをひしひしと感じている。
周りにいる人と同調できるのが「普通」だと信じ、その同調と共感に正しさを感じてしまう。
それが今の子ども達の普通なのかもしれない。
その「普通 」にできるはずの同調と共感を「普通」に飲み込めない子達を傷つけている事を「普通」の子ども達はどう感じているんだろう。

たぶんそこには恐れがあるのだと思う
「普通」では無くなることの恐れ、同調出来なくなったときの恐れ、同調できない自分への周りからの扱いの恐れ。しかして、これは子ども達だけにある問題なの?

いやいや、これは子ども達だけの問題じゃない、大人の社会でももちろん同じことが起きている。
子ども達は大人の見ているものを感じて育っているのだから。「普通」であることが最強装備。
(僕はゲームが好きなんだけど、対外尖った性能が好きな人。)

子どもたちが身を置く社会、学校やSNSのほとんどは子どもたちが作り上げたコミュニティというわけじゃない。そこにはお大人の社会の影が映り込む。組織、権力、信仰、差別、忖度、大人の社会の入り口と言えば聞こえはいいが、果たして我々大人が子どもたちに見せないといけない姿はそんな姿なのか?それを見せないことが良いことだとは言わないが、子どもたちの憧れる社会はそれでいいのか?「大人の役割」って何だろう。


大人が用意した社会である以上、子どもたちの多くはその社会が正しい姿だと認識するだろう。それゆえにその正しいはずの「普通」の社会から外れてしまったときに、自分を追い詰めて苦しくなる。
学校という「普通」の社会に適応できなかった自分は社会に必要ないのではないか?みたいなね。
僕がそうだったからと言って、それが正しいわけでもないけれど。

仮にそこに「選択」さえあれば、
学校に限らず、その時を身をおいているコミュニティに、そこから離れるという選択さえあれば、立ち止まる選択の自由があれば、苦しむことはなかった。
日本の学校という制度のエスカレーターの上では立ち止まる選択も、乗り換えの選択も、気づかない。

だから、それ以外の選択肢を見えるようにしておくのも、大人の役割なんじゃないかと思う。
それが、もし自分の子どもならなおさらね。


僕はまだ親になったことは無い。
だけども、たくさんの大人に囲まれて育ってきた実感はある。
産みの親だけではなく、その周りにいた多くの大人たち、時には親以上に意見をぶつけ合っていたこともあった。

あのとき周りにいた大人たちは、産みの親以上に意見をぶつけ合っていたこともあった。
時には父のように、母のように。
それを僕は大きな家族と呼んでた。
親は選べない、でも、家族は選べる。

えーと、なんの話してたんだっけ。
やっぱあれだね、記事は鮮度が大事だね。

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