物語 どこへいこう?

少年は今、自分がなしたことを呆然と、どこか夢のように、他人がなしたことのように見ていた。すなわち、血の粘り気と、右の手に握り締めた包丁と、そして腹に傷穴をあけて倒れた母親のことである。血液は徐徐に傷穴からこぼれでて、その面積を広めていった。少年は血の赤の赤さに少し感心した。
(まったく、こんなに赤いなんて!)
(動脈を貫いたのかな。きっと、赤血球が新鮮な酸素を蓄えて、今や体中に届ける、というところでのいきなりの仕打ちだったんだろう)
(それにしても母さんにこんな赤さがあったなんてな。歳をとっているから、血だって元気ないものだと思うじゃないか。それが、この赤さだ。みずみずしく痛みを奏でる、産まれたての赤だ)
(たくさんの赤さだな。均一だが、光にあたれば七色に反射するだろう。きっとこの赤の中には緑も、青も、白だって含まれているに違いない。買いたての色鉛筆みたいに、同じ身長で、行儀よく並んでいやがる)
(血は空気に触れると凝固するというが、まだなめらかな水面を保っているじゃないか。固まったらきっと他の色も失ってしまうのだろうな。つまらない、黒しか含まない赤になってしまう。鼻血がでたときに、奥からでてくる、汚い塊みたいなものになっちまうんだ)
(こんなにも赤いのは、きっと生きている赤だからだろう。肺からうんと酸素を吸って、かけっこをする前の、『いちについて、よーい、どん!』の、どん! をいうちょっと前の間だ。すぐに走り出すぞ、という、足と尻の筋肉が伸びようとして、その為にちょっと縮まる、その瞬間だ)
(ああ、それにしても赤いな。世の中にこんな赤さがあったなんて。どんな人間も、この赤さをもっているって知れば、体を開いてみたくなるだろうな)
少年は握り締めた包丁の先っちょで、血が染入って森のようになった母親の髪を、突ついてみた。うーんと声がして、まだ生きていたのか、と、少し残念がって、残りはほっとしていた。しかしもうすぐに死ぬだろう。血は、破裂した水道管のように、ちょろちょろとではあるが止まる気配はない。手当てをすればどうにかなるかもしれないが、少年にはその気はなかった。ただ、つんつんと、突つくのみである。ステンレスの刃がじょり、と音を立て、まさしく森のようであった。
やがて母親は、痛みに歪めた顔を上げ、「これからどうするの?」と少年に話しかけた。
「さあね。どうしようか」
少年は突つくのをやめ、包丁の重さを確認するかのように、手首をくるくると回して、子どもがなわとびを振り回すかのようである。とぼけてはいるが、しゃがみこんでいて、立ちあがろうとはしない。
「なにをしようと僕の勝手だろ。なんでそんなこと訊くんだい」
「これからどうするの?」
母親は再び問うた。少年は今度は答えないで、ぼんやりと、爪をいじっていて、次の言葉を待つ。しかし母親は息を粗くさせるだけで、もう喋ろうとはしないようだったので、しかたなく、「…まだ決めてない」と呟いた。
「でも、とりあえずなら決めてるよ。なんとなくだけどね。昔から考えていたから、思っていることは、山ほどもあるさ。例えばさ、街に出て、道の端っこでコーヒーを飲んでいるような奴らに声かけて、なんとか部屋に入りこむんだ。同じような境遇の奴だよ。小さくて、ちょっと、先輩面してる奴がいいな。そういうのは面倒見がいいからね。でも、煩いのはやだな。あまり口を挟む奴だと、僕はまいっちゃうんだ」
少年は傷ついた母親に了承を得るように話を聞かせた。自分で決めたわりには、どこか反対されるのを怯えているかのようでもある。その証拠に、口調がどんどんと早くなって、焦りが額に浮かんでいた。そして、いつまでも話が止まらないのである。
「まあ、決っているならいいけど」
そして話を止めた母親を、すねた目で、もうちょっと話しをしたそうなしぐさで睨んだが、さすがにこれ以上は話を続け様とはしなかった。新鮮だった血が、表面に膜が張るまでになったのに気付いたからである。
「それじゃあ僕はそろそろいくよ」
といっても少年は動かずに、母親がこくんと頷いてから、ようやく立ちあがった。しかしすぐには玄関に向かわず、うーん、と伸びをして、立ち去りがたそうに、ちらちらと母親をみている。
「死ぬのかい?」
「死ぬだろうね。もうこんなに血が出てしまったし、その分だけ疲れが体に染み込んでいる」
「そうか。死ぬってどんな感じなの? 今これからまさに死ぬ人の意見を聞きたいな。こんなチャンスめったにないだろうからね」
「寂しくもあり、ほっとした、でもありってところかな。一つの言葉じゃいいきれないね。色んな想いがあるよ」
「へえ! ほっとした、というのはすごいな。死ぬ人がほっとなんてするもんかい?」
「でも実際にそうだからね。それと、昔のことを思い出すよ。悲しかったこととか、辛かったこと、嬉しかったことや喜んだことも、映像と一緒に思い出てくる。ため息をするために、ちょっと息を吸うのを、ずっと続けてるみたいな気分だね」
「…へえ」
今度の、へえ、は小さい、へえ、だった。先ほどのように元気のいい、人を馬鹿にしてやろうという意地悪笑いの含まれた、へえ、ではなかった。その自分で言った、へえ、を耳で聞いて、少年は自分が淋しがっているのに気付き、そんなわけがないと、つまらない虚勢をはった。
「さすがだね。これから死ぬ人間って感じだよ。よくいうじゃないか、ええと、あれは映画だったかな、それとも小説かな。小説だったらなんとなく文庫本で読んだ気がするな。いや、教科書かもしれない。まあいい。とにかくそんな本さ。死ぬときには走馬灯のように記憶が過るって、そんな話を知ってるよ。まさにそれだね」
「走馬灯とは違うね。なんだか、池から浮びあがるような感じだよ。ぼんやりと、緑がかった底から浮び上がってくる、その一部始終を見ているようだね。浮びあがってきた記憶は、しばらくぷかぷか浮いているけど、そのうちまた沈み込んでしまう。そしてまた浮びあがる。そんな、ヨーヨーみたいな具合だね。走馬灯って感じじゃない」
そのヨーヨーのように浮かんでは沈んでいく記憶のなかに一体どれだけ自分が含まれているか、少年は少し気になった。そして、それは決して僕が多く含まれているといいな、と望んでいるわけじゃないぞ、と自分に言い訳した。
せっかく立ちあがった少年はまたしゃがみこんで、もうすぐ死のうとしている母親に、少ない声で話しかけた。
「死ぬのは怖い?」
「そうだね。でも少しばかり安心している。なんだ重荷をおろしたようでもあるよ。ようやく、という言葉がいいね。まさにようやく、だね」
「なにがようやく、なの?」
「いろいろさ。生きてきたこととか、わたしがしてたこととか。数々のものが、ようやく、になった。こんなに痛くて、血もたくさん流れているのに、もう、ようやく、なんだ」
そして母親は我が子を見詰めた。
「あんたもようやく、なんだろ。わたしのとは意味が違っているけど。とうとう、ようやく、だね。長かったのか短かったのかわからないけど」
少年は短く、素直に頷いた。そしてたぶん自分は短かったほうだろうな、と思った。クラスメイトのなかで親を殺した、といいふらしているものは多いが、大抵がうそぶいていた。小学生の後半くらいから、ちくしょう、早くぶっ殺してやる、と仲間と共に笑いあっていたが、その仲間の中でまだ殺した奴はいなかった。少年が一番最初だろう。そのことをちょっと悔んでいる。最後は嫌だが、真ん中らへんでよかったのではないか。
一通り流れ出て、面積を広めるのをもうやめた血をみつめながら、ずっと昔から望んでいたことなのに、実は違うかもしれない、と思った。本当は、殺してやる、と思いながら、殺そうとしながら、そのながらをずっと続けていたかったのではないだろうか。ながらのままでよかったのかもしれない。現に今、刺してしまった後で、やめておけばよかったかもしれない、と思っている。しかしもう取り返しはつかない。母親はもうすぐ死ぬだろう。
少年はぼんやりと、これからどうしようかな、と本格的に思ったが、どこか思いきれず、途方にくれた。昔からいろいろと思ってはいたが、どれもこれも現実的なものではないことに気付いた。真剣に真面目に考えてはいなかったのである。ただふざけて思っていただけだった。『ながら』のなかで生まれた考えは、ながらにすぎなかった。しかしいつまでもここにいられないのは、死体になりかけの母親をみても明かであった。とりあえずここから出ていかなければ。
少年はようやく、促されないで自分で立ちあがった。長い時間ひざを曲げていたので、こき、と軟骨が音を立てた。その音を切欠にふたりは向き合い、「じゃあな」といった。
「がんばってね」
なにをがんばればいいかわからないが、うん、と頷いた。そして玄関へ歩いた。泥だらけのスニーカーはこの日に似つかわしくない、と思った。どうせだったら、ぴかぴかの、おろしたてで輝く靴がよかった。けれど今の自分にはぴったりだ、とも思った。がらがらと鳴る引き戸も、もう二度と聞くことはないだろうと思うと、何度も鳴らしたくある。
そして最後に、家の奥から、今から死のうとしている母親の最後の声が聞え、少年はそれに、「うるさいよ」といって、これ以上聞えないように戸を音高く閉めた。

外はよく晴れていた。晴れすぎていて、空は何処までも見渡せて、空気は清清しくて、少年は始めて泣きそうになった。どんな決意をも知らないかのような、いつも通りの爽やかな日に、ためらう切欠もない天気にこそ、だれも自分のことなどいてもいなくてもどうでもいいと思っているんだと実感した。これが雨の降る日や、嵐、雷が落ちる日だったら、かえって勇敢に歩けただろう。または退き返せる理由の中で、もう一度決意することができただろう。けれどこの天気だ。なにも帰れる切欠のない、本当によく晴れた日だった。
その退き返せなさに、少年の心はためらったが、体は勢いのままに1歩を踏み出し、そのままで止まれずに歩き出していた。隠そうとしていた涙がゆっくりとにじみ、いい天気のなかで、口を一文字に閉じ、うつむき加減で歩き進む。何処にもあてはなかった。けれどとりあえず真直ぐ進んでいた。家から遠く離れるために。少年の足取りは果敢なものではなかった。よろよろと頼りなげに、時折立ち止まり、ふりかえって、途方にくれたようにしている。帰りたそうに、帰っておいで、と呼んで欲しそうに。こういう時はもっと前向きになるものだと少年は思っていた。姿勢よく前方を見据え、走り出さんとばかりに大またになるものだと。
泣きながら歩く血まみれの少年を、すれ違う人は不信そうにみつめ、声をかけるものはいない。涙をぬぐう手にはまだ包丁が握られており、ぬぐったつもりでも、顔に血を塗りつけてしまう。血まみれで泣いて、いくあてのない少年は、何度も立ち止まり、何度も振りかえった。少しばかりの決意と、隠しきれない脅えと、今日無くしたものを想いながら。だけどほんの少し果敢なところがあるとしたら、少年は泣いて歩いてはいたが、泣きやもうと涙をぬぐったし、立ち止まりはするが再び歩きだすのである。

 

<終わり>

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