物語 自殺したヒマワリ

「ヒマワリが自殺した」
彼が呟いた。挙動不審で、常に誰かに観察されている妄想を抱いた彼はきょろきょろと忙しなく周囲を警戒している。私の部屋にあがりこんでも警戒を弱める気配無く。
「ヒマワリが自殺したのね」
私は返事をした。彼と一緒に視界に入る窓の向うを眺めながら、とてもよく晴れた日だ。入道雲と快晴とのコントラストが鮮明で、薄暗いこの部屋と外気とが同じ気温でつながっていることが不思議に思える。窓は風の通り道からは外れていて、性交を求める蝉の声は届いても、新しい空気は流れてきてくれない。
「ヒマワリが自殺した」
彼は小刻みに膝を叩き、その指はまるでワルツを指揮するタクト。ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー。私は彼の指の動きにワルツを発見する。汗ばむ肌を不快に感じながら、湿度とは関係のない舞踏館のホールで独りワルツを踊る私を見た。踊る私はドレスをまとい独りきりで、まるで相手がいるかのように空虚に手をのばし身を任せる。指のタクトと蝉の鳴き声はいつしか同調し、私は清涼飲料水のような空想を楽しんだ。陰鬱なこの部屋で、神経質な男と向かい合いながら。
「ヒマワリは自殺するの?」
私は観察するような視線になって、彼の俯いた視線の先になにがあるかを見ようとする。そこには男の足しかない。足の爪を見ているのだろうか? それとも指に生えた毛? 視界は更に暗く、ずうっと外を見ていたので瞳孔が順応するのに手間取っているらしい。映画のシーンのようなもどかしい暗さが、彼の周囲を支配している。
「俺のヒマワリは自殺した」
彼は文法の崩れた調子でヒマワリが自殺した経緯を説明し始めた。私は上の空で、彼の口から発せられる空気の振動だけを耳で楽しんで、そういえば先月の暮れにヒマワリをくれてやったのは私だった。街を歩いた視界の端の花屋、健全なヒマワリは鮮明だった。あまりに私達に縁遠い健康さだったので衝動買いし、もっとも不釣合いな彼の部屋に置いたのだ。息苦しい彼の部屋でヒマワリは肯定的な生命力をみせびらかし、その他の否定的なもの達の中でひどく浮いていた。勝手にヒマワリを置かれた彼は子どもみたいな困惑で、触れることを怖れるように無視していた。あのヒマワリが自殺した。
彼はヒマワリが自殺したのを自分の責任のように感じているらしかった。「俺はヒマワリさえも自殺させてしまった」。その割には悔むようでもなく、自らを責めるわけでもなく、ただ事実を事実として呑み込んでいるかのよう。後悔すら無縁で、「ヒマワリが自殺するなら俺も自殺してもいいはずだ」と呟いた。私はその通りだ、と思ったので「ヒマワリが自殺するならあなたも自殺していいはずね」と返答した。
「俺は自殺し様かと思う」
「あなたは自殺し様かと思うね」
「お前、付き合ってくれるか」
「私、付き合ってあげるわ」
彼はいつまでも神経質に膝を叩き、そのリズムは舞踏館の私も蝉の好色も追い越して独りきりで先行していく。

 

そして私達はヒマワリを探しに行ったの。外出の為私は服を着替えて、彼は剃刀を用意したわ。財布に剃刀を詰めて、ついでに紙幣を何枚か詰めて私達は外を歩いた。ヒマワリを探す為よ。彼が「他のヒマワリも自殺するのだろうか」といって、それを確かめようとして。私は最初に近くの小学校へ案内した。フェンス越しの校庭にヒマワリが整列して並んで、太陽に向かって咲いているの。私はここのヒマワリで十分だと思っていた。でも彼は違ったのね。
「ここのヒマワリは飼いならされている。首輪のついたヒマワリじゃなくて、野良のヒマワリが自殺するか知りたい」
そう、学校のヒマワリは首輪をしていたの。首輪のネームプレートには飼主の名前が掘られてあって、鎖で繋がれていた。一輪ずつ小屋が用意されていて。夜はあの小屋で寝るのね。彼のヒマワリは鉢植えに植えられていたけれど、懐くことは無かった。限りなく野良に近かった。けれど自殺した。彼は他の野良のヒマワリも自殺するかを知りたがった。飼いならされたやつではなくね。
私は次にヒマワリ畑へと案内しようとした。昔、親に連れられて沢山のヒマワリがある処へいった記憶があるわ。そこへ行こうとしたの。畑のヒマワリだって自然のではないでしょうけれど、確か首輪はしてなくて、野良と呼ぶことができる。だから私はヒマワリ畑へ彼を連れていこうとしたけれど、曖昧な記憶を辿ってだから、素直につくことができなかった。沢山の横道を折れて、けれど気の落ちつく道だったわ。私の脇を風が通過して、私は後ろから風の色を追いかけ、彼に話しかけた。
「今の風、何色かしら」
「風は何色でもない。風に色など無い」
「今の風、色がついていたわ。沢山の色がついていた。夏らしい色が」
「俺は風に色を見れない」
「私は風に色を見れるわ」
彼は私と並んで歩いて、風に色を見ることなしでいた。私は風に色を見ている。風だけではなく、空気に、土に、人に、花にも色を見るわ。季節にも。今はもう、水彩画のような夏がのびていて、透明に色は澄みいく。入道雲の白の強さは挑発的で、物質は色の濃さを深めるの。私はそこに爽やかな口笛を被せ、夏の色を鼻からも感知する。風に色を認めない彼と並んで、夏を色で嗅ぎ取る。地平線がやたらと延びて、定規でひかれた道路と直角を成すこの風景に。
「蜂だ」
「蜂ね」
風に流されてか、蜂が私達を追い越していった。蜂は群れることなく一定の距離を保ちながら飛び進んでいた。彼はその一匹を捕まえ、私に見せた。
「蜂だ」
「蜂よ」
私は蜂に色を見ている。彼は蜂に色を見れない。触れることはできるのに色は見れないのね。蜂は捕らえられたことに構わず、前へ進もうと羽を震わせる。
「蜂は俺を無視する」
彼は捕まえた蜂を覗きこみ、蜂ではない他の何かを見ていた。私は蜂だけを見ていた。繊細な体毛の織り成す、艶やかな色彩の生命に。そして私は唾を飲んだの。蜂が余りに蜂過ぎて、飲み込んでしまいたくなった程だわ。けれど彼は蜂に他の何かを見る。だから蜂の色なんて見え様が無いの。
彼は捕らえた蜂を強く握り締め、手を開けた。
「死んだ」
「殺したの」
「俺が殺した」
「あなたが殺したの」
一匹を殺されても蜂の列は順序を乱すことなく飛びゆく。私達は蜂に追い越され、潰れた蜂を覗き込む。彼は潰れた蜂にも他の何かを見て、私は潰れた蜂にも蜂の色を見たの。

 

ヒマワリ畑に着きました。記憶通りの風景が、僅かに色を変え目の前にあります。私は遠い少女の頃を見ていました。あれから身長は若干伸び、出切る事と出来ない事があることを私は悟りました。彼は無心にヒマワリを探り、自殺したものはいないかを見付けようとしています。私はそれを手伝いましょう。独りよりも二人のほうが早く片付きます。ヒマワリの密度は高く、棘が私達の肌を刺します。私はこの痛みさえも色と呼べる日が来るかもしれない、と思ったのです。私もいつか、自殺したヒマワリではないものを探しに、ヒマワリ畑ではない場所に来たことがあります。それは私の中の彼で、彼にいつか生まれる私でした。なので私は彼を認め、付き合っているのです。
「自殺したヒマワリは見付からないな」
「自殺したヒマワリは見付からないわ」
私達は探索を辞め、ヒマワリ畑を一望できる丘へと腰を下ろしました。彼はヒマワリを睨みつけます。傍らで私はゆっくりと、ヒマワリ畑の色と匂いを回想します。ヒマワリは私より背が高いので、この世界では私はよりチビになりました。見下ろされ、囲まれながらも、私は何故か優しくされる気分になり、安心に和みます。その時に私は少女に戻りました。彼は消えて、ヒマワリに迷った少女の私。きっと私は過去を見ていても今を生きるのでしょう。そんな事も私はご承知なのです。
私は立ち止まり、色を感じます。色は何処にでも見えます。私はそれを感じ得なかった頃があります。見えていたのに見えなかったのです。私のいう事を狂言だという輩がいるでしょうが、私は確かに自らを自らにしていなかったのでした。そんな頃をあなたも過ごしたことでしょう。彼は今その最中なのです。色が見えないのです。蜂にすら無視されるのです。彼はよくいうのです、「世界は俺を無視する」と。その通りです。御覧なさい、世界はあなたに興味などありません。何故ならあなたも世界の一部なのですから。そのことがわからず、追放者のようになっている彼は、自分に色を認められないのです。なので私はかつての己を見ているかのようで手出しできず、ただ、付き合ってやっているのです。
「見付からなかったな、自殺したヒマワリ」
「見付からなかったわ、自殺したヒマワリ」
「ヒマワリは自殺しないんだな」
「ヒマワリは自殺しないわ」
「俺のヒマワリは自殺した」
「あなたのヒマワリは自殺したわ」
「俺達は自殺し様か」
「私達は自殺するわ」
彼は財布から剃刀を抜き出し、私の手首にそっとあてました。
「お前は死んでもいいのか」
「私は死んでもいいわ」
私は剃刀の冷たさを心地よく感じました。この肌の下に血管がある、と思うと余計にです。
「お前は死にたがっているのか」
「私は死にたがっていないわ」
彼は問いかけるように私の瞳を覗き込んでいました。半泣きの幼児がすがりつくかのように、私には見えました。
「私は生きたがっているの」
彼は更になにかを尋ね様と私を見てきますが、私は何も答えてあげません。それは彼自身が知る力によってでしか答えられないと、私は知っているのです。
「あのヒマワリ達が」
彼はいいました。
「全て自殺したらどうなるだろう」
「あのヒマワリ達が全て自殺してもどうにもならないわ」
「本当か」
「本当よ」
「世界はヒマワリの自殺を無視するのか」
「世界はヒマワリの自殺を無視するのよ」
「そうか…。自殺したっていいのか」
「そうよ。自殺したっていいの」
そして私はいいました。
「私は死んだっていいの」
「けれどお前は生きたがっているのだろう?」
「そう。私は生きたがっている」
私達の背を新しい風が通りぬけていきました。艶やかに色塗られた、夏の風が。
「俺は……どうなんだろうな」
彼はほんの少し呟いて、長く黙りこみました。深くを思い詰めている様です。そして太陽の高さが変わる頃に、顔を元に戻して、独り立ちあがりました。
「今日は自殺をするのを辞め様か」
「今日は自殺をするのを辞めるわ」
私も続いて立ちあがり、尻についた草を追い払って、私達は今来た道を引き返していきました。彼の顔は半分、まだ何かを考えているかのようで、私はそれにかける言葉を見付けられず、付き合うだけしか出来ません。彼が狂言をいう度に私は付き合ってあげましょう。傍に寄り添ってあげましょう。私達は死を見詰めなければ生きられない奇病を背負った病人で、常に死を拠り所にしなければ生きていけないのかもしれません。直進的な生命とは程遠い生き方です。ヒマワリの中にすら自殺を呼んでしまう私達なのです…。
それでも、と私は思うのです。そういう手段をとっても生きていくことが出来るのなら、いいのではないか、と。私はそれを希望と呼びたがっています。彼もきっとそう呼びたがっている事でしょう。だからまだ自殺を仄めかし、そういう手段で生き続けようとしているのです。いつか全てを受け入れ、肯定できる刻を夢見て。
穏やかな歩調の中、彼が照れ臭そうに話しかけてきました。
「さっき俺、風に色が見えたよ」
私は微笑を返してあげました。
「さっきあなた、風に色が見えたわ」

 
<終>

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