物語 プリン

その日、ぼくはすっかり疲れちまってたんだ。なんで疲れていたかというとね、すごくくだらないことでいそがしかったんだ。くだらないっていうのは、ひどく間抜けな用事で、それがけっさくなくらい間抜けなんだ。自分が嫌になってしまうくらい間抜けなんだよ。君も夜中に、白シャツを探しまわればこんな気分になるだろう。そう、ぼくは白シャツを探して、夜遅くまで、駅周辺を歩き回っていたんだ。なんでそんなものを探していたかというとね、次の日に、どうしても白シャツを着てかなきゃいけなかったんだな。いや、ぼくはどうでもいいと思っていたんだけどね、そう思わない奴らがいるんだな。そして、そう思わない奴らの処へいく用事だから、どうしても白シャツを着てかなきゃいけなかったってわけさ。
ぼくは白シャツなんてどこにでもあると思ってたんだ。部屋にだってあるって思ってた。ぼくはもういい歳だからね、白シャツの一枚くらい部屋のどっかへ隠れてあるって思うじゃないか。君だってそう思うだろ。小学生じゃあるまいし、おとなの男がだよ、白シャツの一枚くらい持っているのは、そりゃ当然ってものだ。ところがどこを探してもないんだな。色がついたのしかないんだ。淡く、青い色のシャツしか部屋にはなかったんだよ。シャツってのはね、ワイシャツのことをいってるんだ。次の日にスーツを着てでかける用事があったんだ。だから下に着るシャツが必要ってわけさ。白いシャツがね。だけどさっきもいった通り、白シャツはどこにも見当たらない。シャツの色なんてどうでもいいと思うだろ。ぼくだってそう思っているよ。淡く、青いシャツだからってなんだっていうんだ。ところがぼくの用事はそうは思わない奴らの処へいくことだから、やっぱり白シャツじゃなきゃいけない。ぼくはびっくりしたねえ。今までずっと、部屋のどっかに白シャツなんてあるって思いこんでいたから、まさか白シャツがないだなんて想像してなかったんだよ。探すことすらしてなかったんだ。白シャツなんて探せば絶対にどっかにあるってね。だけどどこにも見付からないからしょうがなく街にでて、夜に白シャツを買わなきゃいけなかったのさ。

白シャツなんてね、ぼくはどこにでも売っていると思ってたんだ。だってあれは必要なものだからね。どこにだって売っていると思うじゃないか。ところが違うんだな。夜に駅前で白シャツを探すのがどれだけ大変だか、君も一度やってみるといい。そりゃあすごく大変だったんだから。まずね、時間が遅くて、あれは8時近かったかな、デパートは閉まってる時間なんだ。だからデパートには頼れなかったんだ。いってみたらシャッターのやつが閉まってやがってね。次にぼくはコンビニにいったんだ。コンビニってのは気が利いてるからね、白シャツくらい置いていると思ったんだ。ところがどこを探してもありゃしない。ほんとうだよ。君が白シャツを買いたくなっても、コンビニにいくのだけはやめたほうがいい。そんなことをしてもコンビニに白シャツなんて置いてないんだからね。置いてあるのは白いTシャツだけさ。もしTシャツが欲しけりゃそれでいいだろう。けれどぼくが欲しかったのはワイシャツなんだ。Tシャツなんか買ったって役には立たないよ。
それでもね、ぼくはいろいろと見て回ったんだ。足をいそがしく動かしてね。ここには置いてないかな、ってそこらの店中を回ってみたんだ。その駅ってのは、いつもは立ち寄らない駅だったので、土地カンがなかったんだ。だからどこにいけば白シャツが置いてある店があるかなんて知りっこなかったのさ。とはいってもぼくはひどい方向音痴でねえ。いつもいっている駅でもそんなこと知りはしないどね。
歩きつかれたころには、もう9時近くなっていた。信じられるかい。ぼくは白シャツを探し回って1時間も歩いていたんだ。これ以上に間抜けなことがあるのなら、ちょっと聞かせてほしいな。ぼくの知るかぎりこんなに間抜けなことってないよ。白シャツを探して1時間も歩き詰めなんだからね。白シャツに賞金首でもかかってないかぎり、そんなことする奴はいないさ。けれどぼくはそうしてたんだ。自分が嫌になるときってのはこういうときのことさ。とんでもなく間の抜けたことをしなきゃいけないときに、ぼくはすごく落ち込むんだ。君も夜中に白シャツを探して歩き回ればぼくの気持ちがわかるだろう。もっとも君はそんな機会に恵まれないかもしれないけどね。そのほうがいいさ。夜中に白シャツを探さなきゃいけないなんて、よっぽどでもないとあってはならないことだよ。

けっきょくぼくがどうしたかっていうとね、駅からちょっと離れたところまで歩いて、歩道橋を探してその上であたりを見回したんだ。歩道橋は高いからね、遠くまで見ることができる。そしてマンションやらアパートやらが集まっている場所を見つけたんだ。住宅地っていうのかな。ぼくが探したのはそこさ。だってね、住宅地の近くならね、買い物をするためのスーパーがあるじゃないか。今頃のスーパーってばかみたいに遅くまでやっているんだよ。大きなところはとくにそうさ。いっぱい店をひきつれた巨大スーパーは、日付がかわるまで開いている。そういうところなら白シャツだって売っているって思ったわけだ。案の定、見つかったんだな。大きなスーパーが。思ったとおり、夜遅くのこんな時間までくるったように開いているやつだ。でもぼくは嬉しかったねえ。ようやく白シャツを買うことができたんだから。安いやつでよかったんだよ。ただ白けりゃいいんだから。白シャツにこだわる奴は、色だけに満足するから、素材なんてどうでもいいんだ。見てくれが白シャツで、ぴしっとしていればそれだけでいいんだよ。そういうことで人は判断されるんだ。どんなにすばらしい肌触りで、仕立てもかっこいいやつでも、それが赤色だったら、「君は社会人としての自覚があるのかね」なんてことをいわれちゃうんだ。社会ってのはそういうものなんだよ。ぼくがどんなにか気に入ったシャツがあっても、それが白じゃなかったらダメだっていわれるんだ。それがどんなに美しく、人を優しくさせるものだとしてもね。
とにかくぼくはようやく手に入れた白シャツを抱きしめて、家に帰る電車の中で寝ていたんだ。座席に座ってかたひじついてね。なにせひどく疲れていたからね。夜に白シャツを探して見知らぬ街をうろつくのはとても疲れることなんだ。そりゃ満員の電車内であったら、ぼくだって立ちんぼうでがまんするさ。けれどぼくが乗ったときは十分に席が空いていたんだよ。だったら座ってもバチはあたらないよ。あとからどんどんと人が乗り込んできたけどね。とにかくぼくは疲れてたんだ。ぼくは自分が嫌になるとね、ずっとそのことばかり考えるんだけど、そんなことも考えられないくらい疲れてたんだ。かたひじつきながら、眠りかけで、ぼんやりとゆられていた。気分は最悪だったねえ。さっきなにも考えられないくらい疲れていたといったけどね、考えなくても気分はちゃんとあるんだな。もやもやな気分がいつまでもまとわりついて、ますます疲れさせるんだ。考えることができないから、いつまでももやもやから逃げられなくて、とにかく最悪なんだ。本当のことをいうとね、ぼくは寝ちゃいなかったのさ。いくら疲れていてもこんな気分のままで眠れるわけないよ。それにぼくは電車で寝るのは得意じゃないんだな。いくらかたひじついていてもね。そんな格好で眠れやしないよ。昔は寝るのがすごく得意で、どこでもすぐ眠ることができたけど、今はそうじゃないんだ。眠れないことだってあるんだよ。眠ったほうがいいってわかっているときでもね。だって眠るってのはさ、よし、寝よう!と思っても、そう簡単に眠れはしないじゃないか。ぼくは眠りたかったんだけど眠れなくて、ぼんやりとかたひじをつきながら眠っているふりだけはしていたんだ。目をつむってね。そうしたほうが幾分かは楽なんだ。ちょっとは疲れがとれるからね。でもね、夜の電車に乗ってる奴はほとんどが疲れていて、そういうのって口にしなくても態度でわかるんだ。目をつむっていても雰囲気が伝わってくるんだよ。そんな奴らが狭い電車の中にいっぱいいるだろ、そうすると雰囲気だけで疲れちゃうんだ。ほんとうだよ。とにかく重苦しくて、いるだけで疲れちゃうんだ。入ってくるのも出ていくのも疲れた奴らばっかりなんだよ。そんな場所でぼくはこれ以上疲れたくないから、やっぱり目をつむっていたってわけさ。

 

そうやって寝たふりをしていたらね、左のうでになにかを感じたんだ。かたひじをついている方のうでだよ。ぼくはそっちのうでで手すりにもたれて、寝たふりをしていたんだからね。それはすごく弱い力だったから、知らんぷりしようかとはじめは思ったんだ。バッグが少しふれただけかもしれなかったしね。そんなのをいちいち見てもなんにもなりゃしないからね。相手に気を使わせてしまうだけさ。そうやって気を使ういい奴だったらいいんだけど、そいつのほうが知らんぷりして、バッグがあたったくらいいいじゃない、という態度をする奴だったら、ぼくはおもしろくないな。気分が悪くなっちゃうよ。世の中にはそういう人間がけっこういるんだよ。ぼくだってそういう人間だからね、わかるんだ。そういう人間は相手にしないのが一番なんだ。だから君もバッグがあたったくらいで大騒ぎしないほうがいいよ。知らんぷりしてりゃいいんだから。
でもそのときのぼくは知らんぷりしないで、そっちのほうを見たんだな。だってね、バッグがちょっとあたったのとは少し違う感じだったんだ。あきらかに人がつっついてるっていう、そんな感触だったんだ。でもすごく弱い力だった。ほんの、触れたかどうかわからないってくらいの力なんだ。でも人がそうやっている感じが強かったので、ぼくはそいつを見てみたんだ。
ぼくのうでをつっついたのはね、小さな子どもだったんだ。子どもっていってもほんの子どもなんだよ。ぼくの身長の半分もないだろうな。ぼくは背が高いほうじゃないけど、それでも半分もないくらいなんだ。そんな小さな、かわいい男の子だった。その子はね、ぼくを見て笑ってたんだ。とてもいい笑い方だったよ。意地悪な笑い方でも作った笑い方でもなくて、自然にでてくる嬉しい笑い方だ。ああ、君にも見せたかったなあ! あのすばらしい笑顔を。ものすごくかわいかったよ。あまりに嬉しそうで、幸せいっぱいな笑顔だったので、ぼくもつられて笑ったんだ。つい、ね。ぼくはめったにそんなことしないんだよ。どちらかっていうとね、人の笑顔を見ると不安になるんだ。電車で寝たふりしているときにつっつかれて、起きたら相手が笑っていたときにはとくにね。そうでなくても、こんなふうに顔を見合わせていているときの笑い顔は、ぼくは苦手なんだ。なんだか急に不安になるんだよ。それまで楽しかったのが逆転して、その分だけ不安になるんだ。そいつが何を考えているかわからなくってね。怖さすらあるよ。ぼくはそうなるとすぐ帰りたくなるなあ。いたたまれなくてね。とにかく逃げたくなるんだ。もし君といるときぼくがそうしても、怒らないでくれよ。それは君が悪いんじゃない。多分ぼくが悪いんだ。ぼくは不出来な人間だから、そんなことを思っちゃうんだな。
でもね、その子には自然に笑顔を返すことができたよ。なにせすばらしい笑顔だったからね。なにも考えなくて、そうやって笑顔を返すことができたのは、ずいぶん久しぶりな気がするなあ。ひょっとしたらはじめてかもしれない。まさかそれはおおげさだけど、そのくらいご無沙汰だってわけさ。ぼくだって笑ったりすることはあるよ。けれどね、こういう笑いってのはあまりしないんだ。はにかみ笑いとか楽しい笑いとかともちがくて、なんていうのかな、ごあいさつの笑いだったんだ。しかもごきげんいかが?の言葉もなしに、ただ笑顔だけだったんだよ。最上の笑顔だけだったんだ。そういうときってちょっとしか笑わないものだよね。ぼくはそうだよ。本当をいうとね、ぼくはそういう笑いが一番苦手なんだ。そういうことをしたくないから、前から知り合いが歩いてくるのがわかっていても、知らんぷりすることだってあるのさ。悪いとは思っているけどね、とにかく苦手なんだ。やっぱりぼくはろくな人間じゃないね。いつかみんなから見捨てられると思うよ。ぼくがその子には笑顔を返せたのは、男の子の顔があまりに嬉しそうだったからだろうな。ぼくとその子ははじめて会ったんだよ。そのときのぼくは寝たふりをしていて、疲れてたんだ。髪形もくずれてたしね、しかもヒゲをそるのを忘れてたんだ。ぼくはね、鼻の下やあごだけじゃなくて、ほっぺのあたりからもヒゲがでるんだ。わりと目立つ太いのがね。のびるとみっともないんだ。だからそのときのぼくは知らない人が見て話しかけたいな、と思うような格好じゃなかったのさ。なのにその子はすごく嬉しそうに笑ったんだ。ぼくはいきなりそんな態度をされたからびっくりしたけど、やっぱり笑顔を返したんだなあ。だってすごくいい笑顔だったからね。
ぼくがあいさつの笑いが苦手なのはね、その後でどうしたらいいかわからないからだよ。ちょっと笑って、それからなんていおうか、と考えると困ってどうしようもなくて、だから知らんぷりしちゃうんだ。ぼくはこういうときなにかいわなきゃいけないものだって思っていたからね。そのときもそう思ったよ。さて、この子になんていおうかなって。こういうことを考えるとぼくはすっかり困ってしまうんだ。だってなんていっていいかわからないからね。急に笑いかけてきた知らない子に、なにをいったらいいかなんてぼくはわからないのさ。そんなこと考えて、ぼくの笑顔は作り笑いに変わりかけようとしてたんだけど、そんなぼくにかまいやしないで男の子はずっと笑ってるんだな。いっとくけど声を立てて笑ってたんじゃないよ。ほほえんでたんだ。すごくいい、幸せの笑いだよ。その子はよけいなことなんて考えないんだね。あいさつの笑いの後なにを話しかけようかなんて、まったくどうでもいいことなんだって、その子は知っていたんだ。ずっと嬉しそうに笑ってたんだ。
実をいうと、ぼくはあいさつそのものが苦手なんだよ。「こんにちは」とかだったらいいんだ。だけど世の中にはあいさつで「元気かい?」っていう奴がいるんだよ。ぼくはもうこれが嫌で嫌でしょうがないんだ。なんでそんなこというのかわからないよ。だってね、「元気かい?」って訊かれれば、自分が元気かどうか考えなくちゃいけないじゃないか。そういうときってたいてい普通なんだよ。「元気かい?」っていわれたときに特別に元気だったためしはないんだ。それなのに「元気かい?」っていわて、ぼくはなんていっていいかわからなくなるんだ。そんなに元気じゃないから「元気じゃないよ」っていえばいいんだろうけど、そういうと相手は心配しちゃうだろ。「元気じゃないよ」って言葉は、特別に元気なんかじゃないって意味じゃなくて、病気したり落ちこんだりして元気じゃないって意味で使われるものなんだ。だから心配されちゃうんだよ。でもぼくはそこまで元気じゃなかったってわけでもないんだ。それに心配なんかして欲しくないしね。それでしかたなしに、特別に元気じゃなくても「元気だったよ」っていわなきゃならないんだ。それ以外にも、元気かどうか考えると普通だった気分が悪くなってしまうんだ。元気かどうかなんて考えないほうがいいに決っているのにね、そんなこと訊かれちゃうからそんなに悪い気分じゃなかったのに悪くなるんだ。元気かどうかなんて考えてないことが元気なのに、「元気かい?」っていわれると元気じゃなくなるんだ。これはとんでもない皮肉じゃないか。だからぼくは「元気かい?」っていわれるのが嫌なんだよ。もうそんなことやめてほしいんだ。もちぼんぼくだって「元気かい?」っていう人がそういう意味でいってるんじゃないってことくらい知ってるよ。「元気かい?」っていうのはただのあいさつで、特別に気分が悪いとき以外は「元気だよ」っていえばいいってわかってるさ。けれどぼくはそう考えちゃうんだな。ぼくはよけいなことを考える癖があるんだよ。そのことを教えたんだから、君はぼくにむかって「元気かい?」なんて残酷なこといわないでくれよ。ほんとうに、人にむかって「元気かい?」なんていう奴らは無神経すぎるよ。よけいなことを考える人間にとってこれだけ嫌な言葉はないんだ。だからぼくはあいさつが苦手なんだよ。よけいなことを考えなくちゃならないからね。そんなぼくだから「元気かい?」っていう余計なものがつかない、ただ嬉しくさせる笑顔だけのあいさつをいいなあって思ったんだ。ほんとうにこれはけっさくだったよ。余計なことを考えさせないで、こっちも笑顔にさせちまうんだからね。

その子はかわいい子だったよ。とってもいい顔をするんだ。ほんとうだよ。すごく子どもらしい顔なんだぜ。子どもが笑うときはたいてい役作りだけど、その子の場合は違うんだな。心の底からの嬉しい笑いだった。ぼくはすごく優しくされた気がするんだ。きれいな顔だったな。できたてで、誰からも愛される顔だった。笑顔じゃなくてもぼくは好きになっちまっただろうな。とにかくかわいくてね、耳も鼻も、目も口も全てがぴったりと整ってたんだ。そんな顔がすごくいい具合に笑ってるんだぜ。ぼくは一発で好きになってしまった。ほんとうをいうとね、そんなにはっきりとは見えなかったんだ。そのときぼくはめがねをかけていなかったからね。ぼくはひどく視力が悪いんだ。その子は近くにいたけど、めがねをかけていないからぼんやりとしか見えなかったんだよ。だってぼくは寝ていたんだからね。寝たふりだけどさ。だからめがねは外してたんだ。めがねは胸ポケットにあったんだよ。だからすぐかけりゃよかったけどね、いきなりめがねをかけたらその子がびっくりしてしまうって思ったからやめといたんだ。子どもはね、めがねをきゅうにかけるとびっくりするものなんだよ。別人みたいに見えるものなんだ。だから別人扱いされて、その子の笑顔が消えてしまうのが嫌で、ぼくはめがねをかけなかったってわけさ。でもぼくが別人みたいになっても、その子はやっぱり笑顔でいたんじゃないかな。すばらしい子どもだったからね。誰にだって優しくしてくれるだろうな。その笑顔というのがね、すばらしくいいんだ。ぼくはめがねをかけてなかったけど、それはわかったんだよ。笑いじわができる、ぼくが好きな笑顔だ。ぼくはそういう笑顔が好きなんだよ。おすまししてる笑顔なんて好きじゃないのさ。思いっきり笑ってるのがいいんだ。ほっぺがぷっくりとふくれる、顔中が嬉しくなってるやつ、そういうのがいいんだ。ぼくはそんな笑顔が好きだな。
ぼくとその子が笑いあっているとね、その子の母親が、「まあ、ごめんなさいね」っていったんだ。寝ているところをつっついてきた子どもを咎めたんだね。それとも子どもがぼくと話しているのを嫌がったのかもしれない。ご存知の通り、そのときのぼくはあまりいい格好じゃなかったからね。そうじゃなくても見てくれはよくないんだ。親の立場からして、子どもを遊ばせてもいいって思うような奴じゃないってことだよ。ぼくみたいな年頃の奴に子どもを相手させるのは、親からみたらそりゃ不安だろう。ぼくはそういうことをちゃんと知っているんだよ。
それでもね、その子はぼくの方を見て笑ってたんだ。ずっとだよ。いい笑顔なんだ、ほんとうに! もう何度このことを話したかわからないけどね、でもほんとうにいい笑顔なんだ。嬉しかったよ。急にこんなにぼくと会ったことを嬉しがってくれる奴が現れたんだからね。ぼくはこういうことに弱いんだよ。なにしろずっと笑っていてくれる奴だからね。ほんとうに、泣きたくなるくらい嬉しいんだ。
でもぼくはくだらない奴でねえ、いつまでも話をしないわけにはいかない、って考えちゃったんだ。そんなこと男の子は気にしちゃいないのにね。ぼくはいっつもこうなんだよ、なにかしなきゃいけないって考えちゃうんだ。例えばさ、歩いているとあかんぼうを連れた人をみかけるだろ。ぼくは子どもが好きでね、かわいいあかんぼうならとくに好きなんだ。だからあかんぼうをじっと見るんだ。あかんぼうを連れた人は大抵抱っこをしてるんだ、背中からかわいい顔がのぞいてるってわけさ。そんな人たちとよく会うんだよ。それでじっと見てるとね、あかんぼうと目が合うんだ。きれいな瞳だよ。生まれたてでシミ一つない、ビー玉みたいにかがやいている目玉だ。そんな目がこっちを見てくるんだ。するとぼくは困っちまうんだ。そういうあかんぼうはね、あまり笑ったりしないでまっすぐ見てくるんだ。知らない人から、いや、知ってる人でもさ、まっすぐ目を見てこられたら君だって困るだろ。ぼくはとくに困るタチなんだ。それまでかわいいなあ、ってぼんやり見ていたのが、緊張しちゃって、どうしようかって悩むんだ。あかんぼうのほうはなにも考えちゃいないのにね。こういうときぼくは女の人だったらって思うよ。女の人はよく、道で見かけた赤ん坊や子どもに話しかけたりするじゃないか。親のほうも女の人だったら安心するしね。女の人はそういうことをするのが上手いんだよ。少なくともぼくはへたくそだ。ぼくみたいなのが話しかけたら親は警戒するだろうね。だからぼくは話しかけないようにしてるんだ。でもあかんぼうの目ってのは不思議でね、反らすことができないんだよ。おとなの人と偶然目が合ったときは反らすんだけどね、あかんぼうが相手だとできないんだよ。あかんぼうは無視できないようにできてるんだ。人からかまってもらうようになってるんだろうな。それでぼくがどうするかというとね、そのあかんぼうにむかってぺこりと頭を下げるんだ。こんにちは、って意味でだよ。でもあかんぼうはこんにちはを返してくれない。当たり前だけどさ。ぼくはちょっとばかすぎるんだ。だからあかんぼうに頭を下げるなんて間抜けなことしちゃうわけさ。
そんなぼくだからね、やっぱりその子にも話しかけたんだ。「いくつ?」って訊いたんだ。なにをいえばよかったかわからなかったからね。今思えば、はじめに「こんばんは」っていえばよかったな。ぼくは今もそんなことを考えるよ。それというのもね、その子は返事してくれなかったんだ。「いくつ?」って訊いても、答えてくれなかった。でも反応はしてくれたな。嬉しい顔のままで、体をくねらせたんだ。子どもがよくやるやつだよ。小さな子どもはよくそういうことをするんだ。そしたらその子の親がね、「ごめんなさい、照れてるの」っていった。実際にそうみたいだったな。そして親は「ほら、いくつ?って。なんさいかな?」って子どもに話しかけた。これも親と子がよくやるやつだね。でもその子は親に促されてもなんさいかいわなかったんだ。ひょっとしたらまだ話すことができなかったのかもな。親がいうにはその子はたったふたつだったからね。小さい子だとは思っていたけど、そんなに小さいとは思わなかった。2歳くらいの子どもは話したりできるのかな。ぼくはそういうことはさっぱりわからないんだ。これはぼくだけじゃなくて、子育てをしたことがない男はみんなわからないと思うよ。男ってのはそういうことに疎いんだ。ぼくは2歳なんてまだあかんぼうとかわりないって思ってたくらいだからね。こんな立派に立つことができるなんてことすら知らなかったんだ。
ぼくはなんとなく、その子の母親がぼくと関わりたくなさそうだったので、また寝たふりをしようかとしたんだ。ほんとうはもっとその子と笑っていたかったんだよ。だってとても嬉しかったからね。でもこういうときは身を引くことにしてるんだ。ぼくだって自分に子どもがいたとして、ぼくみたいなやつといきなり仲良くしたらびっくりするだろうからね。それにぼくは話しかけても返事してくれなかったことが淋しかったんだよ。無視されたんじゃないかって思ったんだな。ぼくは無視されるのがあまり好きじゃない。どっちかっていうと恐いんだ。だからもう無視されないように、また寝たふりに戻ろうとしたんだよ。その子が返事してくれないから、母親に話しかけてみようかと思ったんだけどね、ぼくは電車で知らない人と話をするのが苦手なんだ。しかも夜だったしね。みんな疲れてて、そんな処で話をしたら聞かれてしまうだろ、そういうのって嫌なんだ。大体なにを話しかけていいかわからないし。ぼくはその子がひとなつっこい子だと思ったから、「ひとなつっこい子ですね」っていおうかと思ったけど、そんなことその人だってわかってるろうしね。「かわいい子ですね」とかいってもよかったけど、こんなみんなに聞かれている状態で、かわいいとかいうのはためらってしまったんだ。男っていうのはそういうことを考えちゃうんだ。だからぼくはその子の親に話しかけなかったんだよ。

ぼくはまた寝たふりにもどったんだけど、その子のことが気になって前以上に眠れなかった。なにをしているのかが気になって、寝たふりのままちらちらと見てたんだ。その子が好きになっていたからね。好きになるとその人のことがいちいち気になって、無視なんてできなくなるんだ。その子は電車の中でしゃがみこんだり、すみのほうをじっと見詰めたりして、母親に「こら、やめなさい」って怒られてた。子どもはよくそういうことをするんだよ。どこでだってそうする、電車の中でも関係ないんだ。これが小学生くらいだったらおとなしくしてるかもしれないけど、この子は2歳だろ、生まれたての子どもが電車のすみを気にしないわけないんだ。ドアの合わさっている具合とか、すみのほうの汚れとか、じっと見詰めるんだ。そんなものがいちいち気になるんだよ。君だって昔は電車のすみが気になっただろ。おとなになると電車のすみが汚れてようがいまいがどうでもよくなっちゃうんだ。おとなはばかだからね。そんなことくだらない、自分と関係ないって思うようになるんだ。でも子どもはそういうことが好きなんだよ。その汚れの色とか、さわった具合とか、かたちとかね。だからしゃがみこんで汚れを観察するんだ。その子は母親に怒られながらも、しゃがみこんでなにかしてた。ぼくは横目でそれを見てたんだ。
その子は立ちあがって、またぼくのほうをむいた。横目で見てたからわかったんだ。ぼくは寝たふりを中止してその子と顔をあわせたら、またあのいい笑顔だよ、そいつでぼくを見て、なにかをさしだしたんだ。小さな手でね。それは赤いBB弾だった。さっき拾ったんだろうね。きっと電車のすみに転がっていたんだ。そいつをぼくにくれるっていうんだ。これをあげる、って笑いながら差し出してくれたんだよ。その子はしゃべらなかったけどさ、笑顔でそういってたんだ。ぼくはもう、心の底から嬉しかったよ。ほんとうのことをいうと、泣き出してしまいそうだったんだ。その日ぼくは疲れていて、夜に白シャツを探さなきゃいけないなんて間抜けなことをしてたのに、男の子はBB弾をくれようとしてくれたんだ。こんなに純粋に嬉しかったのははじめてかもしれない。ほんとうだよ。ぼくはBB弾を集めているわけじゃないけど、すごく嬉しかったんだ。そのBB弾をもらってたら、ぼくはお守り袋にいれて大切に持ち歩いていただろうな。身肌離さずね。でもBB弾をもらうことはできなかったんだ。その子の母親が「こら、やめなさい。失礼でしょ」ってその子の手を払って、BB弾はどこかに転がってしまったからね。母親にしたらBB弾をあげるなんて、ばかみたいなことだって思ったんだろうな。けれどぼくと男の子はわかっていたよ、そのBB弾の価値を。宝石とそのBB弾のどっちを選ぶかといわれても、そのときはBB弾を選んだだろうな。ほんとうだよ。こればっかりはほんとうにそうさ。ぼくはひどい嘘吐きで、いま話したのにも沢山嘘があって、君が「ここが嘘だろ」って指差すところはたいてい嘘なんだけどね。けれどぼくがその子からBB弾をもらいたかったのはほんとうなんだ。他のなにを疑ってもいいけど、これだけは信じてくれよ。ぼくはあの子からBB弾をうけとりたかったよ。その子はきっとね、ぼくが「なんさい?」って訊いてもこたえられなかったから、かわりとしてBB弾をくれようとしてたんだと思うよ。勝手な推測だけどね。でもきっとそうだよ。それともお友達のあかしとしてくれようとしてたのかな。お会いできて嬉しいです、かもしれない。その全ての意味があったと思うよ。BB弾にはそれだけ深い意味が込められてたんだ。君だって疲れているときに、にこにこ笑う2歳の子からBB弾を差し出されたらそう思うだろう。それだけその子の顔はいい笑いだったんだ。そして電車のすみで見つけたBB弾をぼくにくれようとしてたんだ。なんていい奴だろうね。電車のすみでBB弾を見つけたら、たいていは自分のものにしようと思うじゃないか。けれどその子はぼくにプレゼントしてくれようとしたんだよ。さっき会ったばかりの、見ず知らずの奴なのに。ぼくはほんとうに嬉しすぎた。今でも思い出すと泣きそうになるよ。年はずいぶん離れているけど、この子とぼくとならきっといい友達になれるだろうね。そうなったらぼくはこの子が好きすぎになるかもしれないな。そのくらいいい奴だったんだ。

その子はせっかくBB弾をぼくにくれようとしたのに、ぼくはもらえなかった。その子の母親がふり払ってしまったからね。ぼくはほんとうにその子からもらいたかったんだよ。なんだってよかったんだ。小さなネジでも、丸められたレシートでも、ホコリの塊だってかまわない、とにかくその子からもらいたかったんだ。もらったらきっと嬉しいプレゼントだったろうね。いつまでも手にとってのぞきこんで、にやにや笑えるようなものだったろうに。あのときやっぱりもらっておけばよかったと今でも後悔してるよ。
その子はまたしゃがみこんで電車のスミをみては母親に怒られてたけど、もうぼくにプレゼントをくれはしなかったな。あの嬉しげな笑顔をむけることもなかった。ぼくにあきてしまったんだろうね。せっかくBB弾をあげようとしたのにぼくにあげることができなかったので、ぼくに興味がなくなったのかもしれない。それとも疲れたおとな達の中でいつまでもいるのが嫌になっちゃったのかな。その電車の中は100人くらいの人がいたんだけど、みんな疲れきっていたんだ。元気だったのはその子だけだったよ。子どもはころころと興味がかわるものだからね。電車のスミをみていたかと思えば、母親に甘えてぶらんこみたいにぶらさがったりしてた。子どもはいつだって母親にぶらさがりたいものさ。2歳の子はとくにね。そうやって下から親の顔をのぞきこんだりしたがるんだ。子どもはそういうのが大好きなんだよ。あと抱っこもね。その子は急にぐずりだしてしまったんだ。夜の電車に知らないおとな達ばかりで、2歳の子は疲れちまったんだろう。母親に抱っこしてもらって、ちょっと落ち着いて、そのまま電車を降りていったよ。ぼくは最後にお別れのごあいさつをしたかったけど、急に降りていったからね、できずじまいだったんだ。そういえば男の子は最後までしゃべらなかったな。母親とは話していたけどね、ぼくにはよく聞こえなかったな。ちゃんとした言葉としては聞きとれなかった。きっと2歳の子どもと母親にだけわかる言葉があるんだろう。ぼくが2歳だったのはずいぶん昔の話だからね、そんな言葉忘れてしまってたんだ。だからなにを話していたのかわからなかったってわけさ。
でも言葉が通じなくても、その子は笑ってくれたんだよ。優しい笑顔だった。ぼくみたいな人間でも思わず笑い返してしまう、言葉なんかいらないよ、の笑顔だ。ただ笑っていればいいんだ。拾いたてのBB弾をくれてやる優しさには言葉なんていらないんだ。ぼくはかつて2歳だったのにそういうことをすっかり忘れてしまっていた。人にBB弾をあげるなんて失礼じゃないかって思うようになってしまっていたんだな。ただ笑っていればいいことなんてわからなかった。かつてはわかっていたことなのにね。ぼくも2歳のころには、きっとわかっていたんだろう。いつのまにそういうことを忘れてしまったんだ。きっと世の中で一番大切なことなのに。青いシャツよりも白いシャツのほうがまじめな社会人だ、なんてくだらない考えよりも大切なはずなんだ。ぼくは白シャツにこだわる必要なんてないってわかっていたのに、ただ笑っていればいいことを忘れてしまってたんだ。これじゃあシャツの色で人を見分ける奴と同じじゃないか。そういう人間にはなりたくなかったのに、ぼくはただ笑っていればいいことをわからなくなってしまっていたんだ。どうしていいかわからないから、逃げてしまえ、なんてばかなことをしていたんだ。ほんとうにぼくはくだらないね。こんなぼくはいつまでも白シャツを着てればいいんだ。白シャツを探して、夜の駅前をさ迷っているのがお似合いなんだ。シャツの色にこだわることしかできないんだよ。大切な拾いたてのものをくれてやることなんてできなくなっていたのかもしれない。ぼくは2歳になれればいいのに。2歳の子は全て知っているんだよ。なにが大切かっていうものを全て知っているんだ。おとなはだんだんそれを忘れてしまうけど、ぼくらだって電車のスミを気にするようでいなきゃいけないと思う。そういうことをしないから、寝たふりをしてる奴のうでをつついて、友達になろうって笑うことができないんだ。…なんであの子はぼくなんかに笑いかけてくれたのかな。あの子はひとなつっこい子だから、誰にでもそうしてたのかもしれない。けれどそのときは、ぼく以外の奴のうでをつっついたりはしなかった。だったらそんなにひとなつっこいわけでもないのかもしれない。ぼくはね、あの子はぼくに特別に笑いかけてくれたって思いたいんだ。ぼくだからあの子はうでをつついたんだって。そんなわけないだろうけど、そう思いたいんだよ。

 

ここで話をするのはやめにしよう。これ以上なにがあったというわけではないからね。見知らぬ2歳の男の子が笑って、ぼくにBB弾をくれようとしたってだけのことさ。そしてぼくはあの子の笑顔がいつまでもそのままでありつづけて欲しい、と祈っているってだけなんだ。他に君にきかせる話はないよ。ただね、もう一度君がこの話を聞きたかったら、そのときはプリンを用意してくれないかな。プリンがあればぼくはあの笑顔を思い出せるんだ。プリンっていっても、プラスティックの容器に詰められた、狭そうにしてるやつじゃなくてさ、ご陽気に皿に乗せられて踊っているやつがいいんだ。だってあの子の顔はプリンそっくりで、とても幸せそうに笑ってたんだから。ぼくはプリンをみる度にあの男の子を思い出すよ。そしてやっぱりBB弾をもらいたかったなって、いつまでも悔み続けるんだろうね。


おわり

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