短編 蝶太郎

 昔の話である。
 あるところに夫婦が住んでおり、子宝に恵まれない為に養子をもらうことになった。歳の頃は十くらいの男子で、たいそう肉付きがよく、整った顔立ちに眼は利発そうに輝き、行儀良く大人しい子は夫婦にたいそう可愛がられた。子は「蝶太郎」と名付けられ、夫婦の期待に応えるかのように健やかに成長していった。蝶太郎は自分が養子として夫婦に引き取られたことをわかっていたが、まるで実の子のように接してくれる夫婦を信頼し、どうせ自分は養子だから、などという卑屈な面を一つも出すことなしにいた。素直で明朗な少年は誰からも愛され、好かれていた。
 何も不満ないかのような蝶太郎であったが、ひとつだけ不思議なことがあった。
 それは彼が夫婦に引き取られて間も無くのことである。養父から唐突に「蝶太郎や、自慰はしてはいけないよ」と言われたのだ。してはいけないよ、といわれても蝶太郎は心も体も幼く、精通も済んでおらず、自慰という言葉すら知らなかったのでキョトンとした。
 「お父さん、自慰とはなんでしょうか」
 「自慰というのはお前が自分のおちんちんをいじることだよ。小便の時や、風呂の時以外に、用事もないのに手でおちんちんをいじることを自慰というのだが、お前は自慰をしてはいけない。いじりたくなっても、きっとそれをしては駄目だからね」
 蝶太郎はまったくそんなことをするつもりはなく、なぜ養父からこんなことを言われるのかが理解できなかった。しかしながら、ただならぬ口調での言われであったので、はい、と素直に頷いた。
 養父はこの日だけに終わらず、ひと月に一回必ず「蝶太郎や、自慰はしていないだろうね」と訪ねてくる。幼心に不思議に思いながら、「はい、していません」と答える。このやりとりは毎月行われた。

 さて、蝶太郎が夫婦に引き取られてから二年ばかりたったある春のこと、どうしたことか、この頃元気がない。いつも明るく微笑んでいる顔は俯きがちになり、夫婦が話しかけても、言葉数少なくなった。そして自室にこもる時間が多くなった。
 「蝶太郎、最近元気ないがどうかしたのかい。具合でも悪いのかい」
 なんでもありません、そうは答えるが態度の違いは明らかである。反抗期がきたのだろうか、と思った夫婦であるが、日が陰ったような息子の様子に困惑した。
 その日である。養父は毎月欠かさず蝶太郎に「自慰はしていないか」と尋ねたのであるが「はい、していません」といつも通りに答える彼に対し、何故かその日は「本当にしていないね」と一声添えた。不意な追及に蝶太郎は身を硬らせ、眼は見開き、息を止めた。様子を不審に思った養父はさらに、「蝶太郎、本当に自慰はしてないのか」と問い詰める。蝶太郎は答えられなかった。
 反応を見るに、幼かった蝶太郎が自慰を覚えたのは明らかだった。養父は息子をそっと家の奥、妻の目の届かぬところに連れ、怯えて未だ身を硬らせる息子に対し静かに「蝶太郎、本当に自慰はしていないのか」とさらに訪ねた。
 度重なる詰問に観念したのか、蝶太郎は目を潤ませながら小声で「お父さんごめんなさい。ぼくは自慰をしています」とついに認めた。約束を守れずに泣く蝶太郎、息子の告白に養父はひどく嘆いた。そして問いた、今まで何回自慰をしたのか、と。

 自慰の回数を解いた理由はこうである。
 夫婦が蝶太郎を引き取るときにいわれたのである、この男の子に自慰を覚えさせてはいけない、百回精液を自らの手で出したらこの子は蝶になる、人として生かしたいのなら自慰を覚えさせることなく育てるのだ。奇妙な質問の理由はこれであった。蝶太郎は自らの宿命に驚き、同時に諦めの気持ちでいた。自慰の回数はすでに百に近づいていた。
 養父は蝶太郎に懇願した。どうかすぐに自慰を止めて、嫁をもらってくれ。自慰をせずに嫁を抱き、子をこしらえ、人として生きてくれ、と。しかしながら蝶太郎は悲しげに首を振るのである。

 お父さん、実はぼくは男色家なのです。女ではなく男を思い浮かべて自慰をしていたのです。ぼくは女を抱くことはできません。男を、しかも男に抱かれることを思ってしまうのです。ぼくはこのまま自慰をし続け蝶になることを選びます。自慰を止めることも、女を抱くこともできないからです。こんな選択をどうかお許しください。ぼくはそのようにしか生きることはできないのです。

 養父は嘆き悲しみ、蝶太郎を止めようとしたが、自慰を止めることはできなかった。告白の数日後の夜、蝶太郎の寝室からひらりと、一羽の蝶が羽ばたいた。他の蝶にはない白さで、大きく、艶かしく飛んでいた。嘆き悲しむ夫婦の前を蝶はゆっくりと周回し、なごり惜しむかのようであったが、ひらりとそのまま外へ飛び去っていった。
 蝶の去る方向を見つめながら夫婦は言った。「私たちの育てる子はいつもこうだ。いつも儚げになってしまう」と。



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