物語 静かに象は歩く


 僕は2年前にこの町に引っ越してきました。それまで何度か引越しをしたことがあって、引越しをしたことがある人はわかるでしょうが、本当にここに住むのだろうか、そういう第一印象をこの町からもうけました。それまでいた町は海が近くて、道路を越えればすぐに海水浴ができるのでお気に入りでしたが、この町は海から遠く、田んぼだらけです。家からちょっと離れたところにある坂道は気に入りましたが、その道は普段通る必要のない道なので、あまり僕はこの町が好きではありません。たったひとつを除いては。
 そのたったひとつとは、いつからか、と誰に尋ねても「いつからかいるんだよねえ」と答えが返ってくる、そんなものです。通学路を反対方向に進んで、線路を越えて、工事のための砂利を一時的に置く場所に、それはいます。
 象です。巨大な象が寝ているのです。誰も起きている姿を見た事はありません。ずうっと寝ているので死んでいるようにも見えるのですが、近づくと寝息が聞こえるし、呼吸に体が動くので、生きてはいるのです。どんなことをしても起きません。僕はよくこの象に登って遊ぶのですが、飛んだり跳ねたりしても寝たままです。
 「こいつっていつも寝ているよな。なんでこんなところに象がいるんだろう。ずうっと寝ていて、これじゃまるで象じゃなくてシャベルカーだよ」
 ショウゾウくんのいうとおり、まるでシャベルカーみたいです。だっていつも寝てばかりなのですから。僕は一度ここを夜遅く通りがかったことがあるのですが、よく見えなくて影になっている象は本当にシャベルカーに見えました。象の頭と鼻の形がちょうどよくシャベルカーを連想させます。僕はここで待ち合わせをすることがあるのですが、それ以来「象のところでね」ではなくて、「シャベルカーでね」に合言葉を変えました。その方がかっこいいし、まるで暗号みたいだからです。
 僕はこの象が好きです。話したことはないけれど、よりかかると温かくって安心します。ざらざらの肌にもたれかかっているだけで僕は幸せな気分になります。僕が一番好きな時間は、この象によりかかって居眠りをしている時です。友達と集まって遊んでいても僕はこっそりと脱け出し、象と一緒に眠るのです。あまり仲のよくない友達と遊ぶよりは、こうしているほうがいいからです。ざらりとした肌にほっぺたをくっつけて眠ります。
 「タカユキって本当に象が好きなんだなあ」
 帰る時間になって、僕を起してくれたショウゾウくんはあきれながらそういいました。僕はそういう時、ショウゾウくんと一緒に帰りながら、象がどんなに素敵かを話すのです。ショウゾウくんも象のことを好きなのですが、僕よりも好きではないので、時時あきれて笑いながらも、話に付き合ってくれます。
 僕はクラスのみんなとはあまり話をしません。仲がよくないのです。イジメとか、そういうのとは違って、とにかくお互いにあまり関わらないようにしています。「おはよう」とか、「次の授業は理科室だよ」とか、挨拶程度はいいますが、そのくらいです。僕は人付き合いが得意ではないのです。なので人といるよりもできれば一人でいたい、そう思っています。そんな僕によく話しかけてくるのがショウゾウくんです。僕は最初ショウゾウくんに対してもそっけない、逃げるような態度でいましたが、それでもしつこく話しかけてくるのでだんだんこちらからも話すようになりました。こういう僕がたまにみんなと遊ぶのも、ショウゾウくんと関わりがあるのです。僕が放課後に一人で象に会っていたら、クラスのみんなの声がやってきました。そっちのほうを見ると、あんのじょう、クラスの人たちが集まって遊んでいるのです。僕は象の影に隠れ、このまま見付からないように脱出しようとしました。そんな僕を見つけたのがショウゾウくんです。
 「あれ、タカユキじゃん」
 ショウゾウくんの声にみんなが僕を見てきました。注目されて僕は気まずく、「…うん」といって、早く帰りたい気持でいっぱいです。
 「どうしたの?」
 「…象を見たくて」
 「そう。俺たちと一緒に遊ばない?」
 「…いいよ。スポーツ苦手だから」
 「そんなこといわずにさ。頼むよ、人数足りないんだよ。な」
 押しきられる形でサッカーに参加しました。僕はみんなといることに緊張して、うまく動けなかったのですが、ショウゾウくんが丁寧に教えてくれて、なんとかミスをしないでサッカーをすることができました。初めぎこちなかったみんなとも、サッカーが終わるころには話ができるようにはなったのです。それ以来、たまに集まって一緒に遊ぶことはありますが、けれど僕は馴染めないのです。なぜだか少し距離をおいてしまって、そんな態度は僕自身が仲良くするのを嫌がるように見えたことでしょう。そして僕も少しそれを望んでいたのです。

 

 その日の夜、僕は散歩をしました。台風が近づいていたからです。台風が近づいてくると風が少し強く、そんな夜に散歩をするのが好きです。体がふわふわ浮びあがるみたいで楽しいのです。僕はお父さんとお母さんにことわって、一人きりで散歩に出かけました。
 夜の風は少し涼しくて、昼のよりもずうっと気持ちいいです。僕は時時風にシャツをめくられながら、こんな時間に一人きりでいることにどきどきして、散歩しました。夜は楽しいです。暗いといつもの場所がいつもに見えなくて、新しい発見があります。キモダメシとも少し違って、まるで映画の世界みたいです。僕はそんなものたちに「やあ」と声をかけて、散歩をしました。どこにいこうともせず気紛れに歩いていたら、象のところにたどりつきました。
 「やあ、こんばんは」
 僕は象に挨拶しました。返事はありません。わかっています。でも僕は好きだから挨拶するのです。他の人がいるとバカにされるからしないのですが、ひとりきりだと僕はこうやって挨拶をするようにしています。暗くて象は影みたいになってよくわからなくて、やっぱりシャベルカーみたいだあな、と僕は思いました。
 僕は象に触れました。少し濡れていて、ひんやりとしています。こんな冷たさが生き物であることを不思議に思いました。ぼくはこのまま象によりかかって眠ってみたい、と思いました。そしてその通りにしようと、そのままよりかかりました。
 そのときです。僕を押してくる力で気がつきました。象が動いたのです。いつも寝ていたあの象が、ゆっくりと歩きはじめたのです。僕は最初夜が見せた夢か、錯覚か、と思いましたが、あのシャベルカーの影は確かに動いていました。ささあー、と地面と足が擦れるおとがして、ゆっくりと、夜の隙間を歩いています。
 「ねえ、何処へ行くの?」
 象は答えません。重い瞼は開いていましたが、僕を見てはいませんでした。ずうっと前のほうを見ています。僕はそっちを見てみましたが、夜に隠れてなにも見えませんでした。
 「僕も連れていってよ」
 それにも黙ったままです。僕は象についていきました。象はのろまなのですぐに追いつきます。遅すぎるのですぐに追い抜いてしまうので、僕はだいぶのろまに歩いて、スピードを合わせました。
 僕と象はゆっくり歩きます。初めは色色話しかけていたのですが、何も答えを返す気がないのがわかって、僕も無口になりました。象は何処に向かって歩いているのでしょうか。僕はそんなことを考えたり、別のことを考えたりしていました。空には申し訳程度の星があり、薄雲に隠れた月がやけに明るく輝いていました。夜なのにやけにはっきりとした気分です。
 「タカユキ?」
 突然の声です。ショウゾウくんがいました。
 「どうしたの?」
 「そっちこそ。…うわ、象」
 「うん。歩き出したんだ、こいつ。だから追いかけてるの」
 「歩くんだ、こいつ。何処に行くの?」
 「それを確かめようと思って。興味ない?」
 「ある。俺もよせてよ」
 「いいけど」
 僕と象の列にショウゾウくんも参加しました。ショウゾウくんは僕にジュースをくれて、これを買いにコンビニにいった帰りに僕らに出会ったそうです。僕は台風が近いから散歩していた、といったら変な奴扱いされてしまいました。
 「まあ気持はわかるかも。俺もそういうのけっこう好きだよ」
 「ホント? へえ…」
 僕はショウゾウくんともそんなに仲がよくありません。悪くはなく、彼とは一番よく話すのですが、友達、と呼べるほどではないと思います。僕には友達と呼べる人はいないのです。僕が唯一自信を持って友達といえるのはこの象だけです。なので、仲のよい友達といるのを邪魔されたみたいで、ショウゾウくんの登場は居心地いいものではありませんでした。
 象は住宅地をぬけて、その先に進みます。途中学校の前を通りました。夜の学校を見ているとなんだか不思議で、よくある怪談の話を僕は思い出しました。ショウゾウくんにその話をしようとしたら、「やめろよ」といわれて、どうやらショウゾウくんはそういう話が苦手みたいです。僕は普段元気なショウゾウくんの意外な一面がおかしくて、意地悪で怪談話を聞かせようとしましたが、あまりいいのを思いつけなかったので怖がらせることができませんでした。
 「何処まで行くんだろうな、こいつ」
 「もうだいぶ歩いたよね」
 「ここ何処だろ…」
 よく見るとそこは僕らの知らない場所でした。象について歩いたら見知らぬ土地まで歩いてきてしまったようです。電信柱の灯りだけであとは真っ暗です。僕とショウゾウくんは心細くなってどちらからともなく寄りそって、そして象とも体をぴったりにしました。
 「ちょっと怖くなってきたね」
 「うん」
 「象は怖くないのかな」
 「象は怖がらないよ、きっと。こんなにおおきいのだもの」
 「そうか。そうだね」
 長い夜です。風がでてきました。静かすぎて音を出すのがいけないことみたいに思えて、僕は小さな声でショウゾウくんに話しかけます。
 「帰る?」
 「帰るって、どうやって」
 「え?」
 「帰り道なんかわからないよ。真っ暗だし。知らない場所だよ、ここ」
 「じゃあついていくしかないのか」
 「そうだね。明るくなるまでこのままでいようか」
 僕は引き返せないことなんて思いもよりませんでした。そんなことになって、脅えるかと思ったのですが、以外と平気です。ショウゾウくんと象が一緒だからかもしれません。もし僕ひとりでこんなところにいたら、怖くて泣いていたかもしれません。
 「象が歩き出したなんて、みんなにいったら驚くだろうね」
 「ああ。なんで歩き出したんだろう」
 「わからない。いきなりだったんだよ」
 「ずうっと寝ていたのにいきなり起きたんだな」
 「何処かいきたいところがあるのかな、やっぱり」
 「かもね。ところで、何処までも歩くな、こいつ」
 こんなにも長い距離を歩いているのに、なぜか僕は疲れませんでした。もう夜があける時間はとっくにすぎているはずなのに、朝になる気配もなく、象もあいかわらず歩くだけです。その時の僕の気持は、なんだか不思議なものでした。よくわからないけれど『このままでずっといられたらな』と思いました。いつのまにかこうしてみんなで歩いていることが居心地いいように、別に特に楽しいわけでもないのに、とても大切な時間のような、そんな気がしたのです。夜の空気が涼しくて、温度が優しくて、音も、時間も、全てが親切にいてくれているようです。おそらく僕がそんな気になったのは、ある訳のせいです。
 「ねえ、ショウゾウくん」
 「なに?」
 「あのさ、僕、転校するんだ」
 「え?」
 「もうすぐ。2学期にはもうここにいないの」
 「本当に?」
 「うん」
 僕はゆっくり歩きながら、転校のことを説明しました。お父さんの仕事の関係で、ここから動くことになったこと。だいぶ前に知らされたこと。けれどいえなかったこと。ショウゾウくんはそんなに仲のいい友達という訳ではありません。僕は内気で、仲のいい友達がいないのですが、ショウゾウくんとは最近仲良くなり始めて、ひょっとしたら友達になれるかもしれないと僕は思っていました。そんな予感がふたりはしていたのです。もうちょっと時間があれば、もっと仲良しになれるかもしれない、そう思ったのです。
 「なんでいってくれなかったの?」
 ショウゾウくんの声は怒ってはいなくて、それが逆に怒られているように思えました。
 「だって、いえなかったんだもの。僕さ、そういうのいえないんだ。苦手なの。本当はね、誰にもいわないで転校しようと思っていたんだ。そうできたらいいなあ、って」
 それは僕の夢でした。転校の多い僕は、その度にされる『お別れ会』というのが苦手なのです。みんなに「じゃあね」「また会おうね」とかいわれるのは嬉しいのですが、僕なんかのためにこんなことしてもらうことの居心地の悪さを常に感じていました。だから僕はひっそりと、いつのまにか転校していた、なんてことを一度してみたかったのです。
 「…なんでそんなことしたいんだよ」
 ショウゾウくんの声は泣いていました。泣き声でした。もうちょっとで泣き出してしまう、そんな声でした。僕は突然ショウゾウくんが泣きそうになったのに驚いて、なんで泣きそうなのかがわかりませんでした。
 「みんなだって、ちゃんとお別れしたいに決まってるだろ。なのになんでそんなこというんだよ」
 「…ごめん」
 ごめんと謝りながらも僕は心の中で、『そんな訳ない』と否定していました。僕なんか転校してもすぐ忘れられるだけで、クラスのみんながお別れしたいなんて訳ありません。2年前に転入してからあまりクラスに馴染めなかった僕は、そんなことを思いました。
 「タカユキは、だからダメなんだよ。そうやっていつも一人でいるから。みんなおまえと仲良くしたかったんだよ。俺だって、もっと仲良くなりたかったのに。なのにいつも避けてるみたいにして、距離あけるから、みんなだって話しかけれないんじゃないか」
 ショウゾウくんは本当に泣き出しました。泣きながら話しています。話によると、ショウゾウくんは僕のことでずいぶん気を使ってくれていたそうです。いつも一人でいる僕を心配していたこと。転入生だからか、ひっこみじあん気味の僕になんとか明るくなってもらおうと、色色と話しかけたこと。けれどうまくいかなかったこと。僕の友達第一号になろうと決めたこと。うまく仲良くなれないことがつらかったこと。それでも最近は少し話すようになって、それがうれしかったことなど。
 僕のことでこんなに泣かれるなんて、信じられません。ショウゾウくんのいうとおり、僕はいつもみんなから離れた距離でいました。人付き合いというのが苦手だからです。僕は人にどう話しかけていいかがわからなくて、話しかけられても、なんでこの人は僕なんかに話しかけてくるのかな、などと思ってすぐ逃げたくなるのです。その人のことが嫌いではありません。けれど離れてしまうのです。転入して、歓迎してくれたクラスのみんなもそんな僕の態度に困惑して、しだいにお互いに距離をあけるのがルールみたいになっていました。そんな僕に熱心に話しかけ、クラスのみんなとも話しをさせるようにしてくれていたのが、ショウゾウくんだったのです。
 「いつもさ、一人でさみしそうにして、仲間に入れて欲しそうで、そのくせ誘っても『僕はいいよ』なんていって。なんでそうなんだよ。みんな新しい友達が欲しいはずなのに、そんなことされたら嫌になるだろ。なんでそんなことするんだよ」
 「…僕だったら、僕みたいなのを友達にしようなんて思わないよ」
 ショウゾウくんはきっと怒るだろうな、と思いました。けれど僕はいわずにはいられませんでした。それは僕がいつも思っていたことです。僕だったらこんな僕を友達になんてしたくない。長い間思っていたことです。こんな僕を友達になんてしたい奴、いるわけがない。そんな訳ないのです。
 「…俺はおまえと友達になりたかったよ」
 僕はわかりませんでした。なんで僕と友達になんてなりたいの? 僕のどこがいいの? 僕みたいなの、どうでもいいのに、なんでそんなに優しくしてくれるの? 僕はショウゾウくんが親しげに、仲良くしてくれる程にそう思いました。なんでなんだろう。ねえ、なんでなの? けれど問うことができません。それを聞くのが怖いからです。どんな答えでも、僕の手によってすぐさま否定されてしまうものでしょうから。
 「僕もショウゾウくんと友達になりたかった」
 「だったら、なんで」
 「…ごめんね」
 僕はいつの間にこんなにショウゾウくんを悲しませていたのでしょう。ショウゾウくんは僕のことでずいぶんと心を痛めていたみたいです。僕はショウゾウくんと友達になりたかったのです。それだけは本当なのです。いつも、みんなと仲良くしたかったのです。けれどそれがいえなくて、そんなこと考えていると思われるのが恥かしくて、そっけない態度でいたのでした。仲良くして欲しいことがいえずに。
 「仲良くなりたいのならさ、そういわなきゃダメなんだ。伝えなきゃダメなんだよ。いわないとわからないんだよ。いってくれないと、違うんじゃないかなとか思ったり、不安になって、逆のこと考えちゃって、もしかしたら嫌われているんじゃないかとか、そんなことばかり考えてしまって。だから、ちゃんといってよ。いわなきゃダメだよ。そんなのじゃタカユキ、いつまでも一人だよ。それでいいの? 違うんだろ。ならさ、…」
 夜はいつまでも続きます。僕はショウゾウくんに謝りながら、なんでこんなにも正直に好きになれないか、考えすぎて脅えてしまうのかを考えました。そしてそれは結局、僕を好きになってもらう自信がないから、だから仲良くなることもできないんだ、ということなのでした。
 「なんで好きになってもらう自信がないんだよ」
 「だって…。ねえ、僕のどこがいいの? なんで僕のこと友達にしたいの?」
 ついに尋ねてしまいました。するとショウゾウくんはいっそう悲しげに、僕を見てきました。そしていいました。
 「そういう理由がなければおまえと仲良くなっちゃいけないのか?」
 「そうじゃないけど…」
 人を好きになるというのはそういうことじゃないんだよ。僕はかつて誰かからもそういうことをいわれました。けれど、僕はやっぱり自信がありません。何年も前から僕は成長がないのです。だから人と仲良くなることにも自信が持てないのです。
 ショウゾウくんは怒りながら泣いて、僕は隣でいじけ気味で考えていました。そんなことをしながらも、やっぱり僕はショウゾウくんのことが好きなのでしょう。きっとすごく好きに違いありません。好きでいることに不安を覚えるくらい、この気のいい奴が好きで好きでしょうがないのです。僕は象にそっと触って、どうしたらショウゾウくんのことを好きなことにもっと正直でいられるのだろう、と思いました。
 そんなことを思っていたら、象と目が合ったような気がしました。

 長い夜が明けるときがやってきました。朝が近いことを知った僕らは立ち止まり、象はそのまま歩きます。ゆっくりと、しかし確実にです。朝もやの中を象は進み、見えなくなりました。
 「帰ろうか」
 「うん」
 ショウゾウくんは言葉少なめで、まだ怒っているのかなあ、と僕は不安になりました。僕らも朝もやの中を象と反対方向に歩きます。歩きながら僕はゆっくりと思い出しました。転入してきた初日のこととか、ショウゾウくんが初めて話しかけてくれた時のこと。そしてその時の気持と、いつも思っていたことを。
 「ねえ」
 「ん?」
 「あのさ、もうすぐ僕、転校するんだけど」
 「うん」
 「ショウゾウくんともっと仲良くなりたいんだ。ちゃんと、友達になりたいの」
 「…うん」
 「だからさ、いっぱい遊ぼうね」
 「…ああ」

 

 その日のことはこれでお終いです。それ以来僕はショウゾウくんとたくさん遊ぶようになって、しだいにクラスのみんなともうちとけるようになりました。僕はずいぶん人を好きになることに正直になった気がします。みんな態度を変えた僕に戸惑いながらも、すぐに仲良くなりました。楽しくおしゃべりしながら僕は、こんなに簡単なことだったことに、なんだ、と笑いました。転校することをいったらみんな悲しみ、「もっと仲良くしておけばよかったね」といいました。僕は「そうだね」と本気で思いました。
 あの日いなくなった象はそのままで、もう何処にいったか知るものはいないのですが、僕はあの象からずいぶん色んなことを教えられた気がします。なにもいいはしないのですが、常に僕が辿りつくのは、あの象です。何故だかあの象のことを僕は忘れられないのです。それはきっと、ショウゾウくんと初めて会話らしい会話をしたのが、象についてだからなのでしょう。転入したての頃、家の近いショウゾウくんと一緒に帰ることになって、話しかけられてもそっけない返事ばかりしかしない僕は、いいものみせてやると誘われて、初めて象を見たのでした。
 「え、なにこれ?」
 「へへへ、すごいだろ。この町には象がいるんだよ。いつも寝ているけどな、こうして触ることもできるぜ」
 「へえ、すごい! 触っても起きないの?」
 「ああ。おまえも触ってみろよ」
 「うん…。わあ、ざらざらしてるね」
 「だろう? この町の子どもはみんなこいつと遊ぶんだ。よじ登ったりしてな」
 「そんなのしていいの?」
 「いいさ。今から登ってみようか」
 そして僕はショウゾウくんに手伝ってもらい象の背に登ったのです。僕は初めて生き物の背に上ることに不安で、ショウゾウくんに頼りっきりでした。ショウゾウくんは「大丈夫だよ」と優しく、僕をこの町の象徴へと案内してくれたのです。あの日、象の背から見た光景は忘れられません。町並みがなぜかきれいで、どんなささいなことも美しく輝いていました。新しい町に引っ越してきたばかりの僕の心は、その時ようやく脅え以外の感情を味わったのです。その感情とは、あの夜ショウゾウくんに「もっと仲良くなりたい」ということができた気持とよく似ていて、象と目が合ったときに僕はそのことを強く想ったのです。

 僕はこれからも人を好きになることに正直になろうと思います。仲良くなりたいときはそのことを正直にいえるようになりたいです。今も僕は好きになってもらう自信はありませんが、人を好きになることについては自信をもって認められます。僕はショウゾウくんが好きです。クラスのみんなが好きです。今の僕はみんなが好きなことを、象に手伝ってもらわなくてもいうことができるのです。
 今日も僕はショウゾウくんと遊ぶ約束をしました。家に帰ってランドセルを玄関において、そのままでショウゾウくんの家に走ります。僕はこうして走るのが好きです。ショウゾウくんの家までのほんの少しの距離が、会いに行くまでに走る時間が、とてもショウゾウくんのことが好きなんだと実感させて嬉しくなるからです。そしてその距離に僕は象を見るのです。あの夜、ショウゾウくんと一緒にいた時間、ずっと側にいた象の姿を感じます。きっと本当にはいないのでしょう。けれど見える、そんな気がするのです。
 ショウゾウくんの家の玄関を開けて、僕は大声でいいました。
 「ショウゾウくん、あーそーぼー!」
 「おう、あがってこいよ」
 僕はもう好きなことから逃げるのはやめます。転校の日に僕のためにお別れ会をしてくれるそうですが、それにだってみんなを好きな気持のままで出席しようと思います。人を好きになることについて臆病だった僕は、正直になることを覚えました。それをいつまでも大切にしていこうと思います。僕の心の中に今もある象の後ろ姿、シャベルカーによく似た影はいつでもなにもいってくれませんが、とても大切なことを静かに教えてくれるのでした。
 僕は象と共にショウゾウくんの涙も思い出し、少しすまなく思って、そしてその度に友達が好きなことを嬉しく噛み締めるのです。

 
終わり

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