物語 月に桜

コタロウが退院した。「今度遊びにくるからね」そういって去っていった。今度なんてくるわけない、1度ここをでたヤツが遊びに戻ってきたことなんてないんだ。退院した人間が病院に遊びにくることはない。通院はしてるらしいけど病室まで遊びにきてくれるヤツなんていなかった。いくら友達だと思っていたヤツでも。だからしばらくは3人で遊ばなきゃいけない。コタロウは唯一まともに話しができるヤツで、歳も近かったのに。残ったのはオレも含めてろくなヤツがいない。特殊小児病室と呼ばれているここは重病の子どもが入れられるところで、集まるのはみんな普通じゃないヤツばかりだ。まったく、毎日が動物園の飼育小屋みたいな病室だ。いや、オリかな。とにかくここはロウゴクで、そんなところに閉じ込められるのはどうしようもないヤツってことだ。

看護婦さんから聞き出した話によると、コタロウが使っていたベッドにはすぐにかわりがくるらしい。オレはよく看護婦さんと話をするんだ。家族も忙しくて最近こられないから、コタロウが退院してからは話し相手といえば看護婦さんくらいしかいなかった。
「ねえ、オレっていつ退院できるの?」
看護婦さん(ケイコという名前だ)は点滴の用意をしながらいった。
「さあねえ、高畑先生からはなにもきいてないからわからないわね」
「コタロウ先に退院したじゃん。高畑センセー、オレが先に退院できるっていってたんだよ」
「ユータくんおとなしくしてないからじゃないの。コタロウくんはちゃんと先生のいうこときいておとなしくしてたから早く退院できたのよ」
「そんなのウソだよ。コタロウだってオレと一緒に病棟歩き回ってたもん。あいつ、消灯の時間になっても寝ないでいつもおかし食ってたんだぜ。センセーがダメっていってたのに」
まあ、悪いのね。そう笑いケイコさんは点滴をするから腕をだすよういった。オレはその通りにして、また話しかけた。
「今度くるのってどんなヤツ? いつくるかわかる?」
「どんな子だかは知らないけど、明日くるそうよ」
「明日か。そいつどんな病気なの?」
「そこまでは知らないわ。さ、点滴が終わるまで動き回っちゃだめよ。ベッドでおとなしくしてなさい」

いかにもおとなしそうなヤツだった。歳はオレより1~2歳下といったところ。両親に連れられて不安そうに病室を見まわしてる。カーテンの隙間からのぞいてると一瞬目が合い、オレはすぐに隠れた。見た目はマトモだな。話しが通じるヤツだといいんだけど。そいつのお母さんはしつこく「なにか食べたいものはある?」「冷蔵庫に入れておくからね、共同のだからビニール袋に入れて名前書いておいたから。間違えて他人のとっちゃダメよ」「トイレは部屋でて右にまがったところにあるから」と世話を焼いてる。面会時間ギリギリまでねばって帰っていった。
「なあ」
面会時間が終わってから話しかけてみた。そいつはオレが話しかけるなんて思わなかったのか、ビクッて体を震わせて上目づかいでこっちを見た。
「お前さ、名前なんての?」
「…マコト」
「歳は?」
「11」
「へー、オレと同じじゃん。もっと下かと思っていた」
「……」
「お前なんて病気なの?」
マコトは困った顔をして少し黙った。
「…知らない。先生は血の病気だっていってた」
血の病気? なんだろ。
「先生って高畑センセー?」
「うん」
そこで会話が途切れて、オレはふーん、といってベッドにもぐった。

マコトとはすぐに話せるようになった。最初のうちはゲームばかりしてた。
「マコトってさ、マジックできる?」
「マジックって手品?」
「ちがう。ゲームだゲーム。ほら、カードの」
オレはマコトにカードを1枚見せた。
「あー。僕のトコじゃポケモンだったから」
「なんだつまんねー。相手ができると思ったのになー」
「じゃーユータがポケモン覚えたら? いらないカードあげるからさ」
「なんでだよ。お前がマジック覚えたらいいじゃん」
「でもマジックって難しそうだし…」
「覚えりゃ簡単だって」
結局2人してお互いのゲームを教えあうことにした。オレはマコトにマジックを教え、マコトはオレにポケモンを教える。そしてゲームをしたのだけど、やっぱり慣れてる方が得意で、マジックのときはオレが、ポケモンのときはマコトが勝ってばかりいる。だからオレはマジックの方をしたいんだけど、マコトはポケモンをやろうとしかいわない。
どっちかばかりが勝ちつづけてしまうのでカードゲームはあまりしなくなった。ゲームをしたのは仲良くなるキッカケ作りみたいなもので、その段階が終わったオレたちはお互いを知るための話しをした。
「お前ってさ、手術するために入院したの?」
「うん。すぐにはしないけどいつかするって。ユータは手術した?」
「いや、オレはまだしたことない。その代わり薬とかいっぱい飲んでる」
「へー。…手術って痛いかなあ」
「麻酔するからだいじょうぶじゃねえの」
「でも体切るんだし、やっぱ痛そう」
「だなー。オレもあまり手術したくない」
「うー、やだなー」
「どんくらい入院すんだ?」
「わからないって。手術ができる体になって、それから手術して、退院して、どれくらいかかるかはまだわからないんだ」
「だいぶかかるみたいだな」
「そっちは?」
「センセーに訊いたんだけどごまかして答えてくれなかった。まだまだかかるみたいだな。正直センセーもわからんみたいだし」
「ユータってどのくらい入院してるの?」
「4年間」
「4年? そんなに?」
「そ」

「お前って小学校通ってたんだろ? いいなー、オレ1年ときにチョビットいったっきりだぜ」
「それからずうっといってないの?」
「そ。ずーっと入院生活。オレさ、ケイコさんが看護婦になるよりも先にこの病院にいるんだ」
「へー、すごいね。勉強とかはどうしてるの?」
「看護婦さんが時々教えてくれてる。あと母さんがドリルとかもってきてるからそーゆーのやったり」
「僕も勉強道具もってきたよ。入院中も勉強しなきゃだめだっていわれて。でも学校じゃないのに勉強したりする?」
「んー、メンドウだけど他にすることない時とかにやったりする。暇なんだよな―病院だと」
「僕、家で宿題とかしない方なんだよな…」
「たまーにするといい暇つぶしになるんだけどな。あと暇な時はマンガ読んだり。ジャンプとかなら1階の売店に売ってあって、それ立ち読みして」
「他にすることは?」
「あとはー、病院の中を探検したりー、看護婦さんと話したり」
「探検か。おもしろい?」
「夜だとおもしろいぜ。真っ暗ですんげー怖いの。病院だからさホントに死んじゃった人とかいるわけじゃん。そう考えるとマジでなんかでてきそうな気がするんだよな」
「うわ、こわそう」
「今度行ってみようぜ」
「いつかね」

「ねえ、あの人ってどんな人? まだ話したことないんだけど」
マコトはちらっとノブユキを見て小声でいった。
「あー、あいつはね、ちょっと。あまり話しできないよ」
「なんで?」
「なんか、心の病気なんだって」
「へー。話せないの?」
「喋ることはできるんだけど、なにいってるのかわかんない」
「ふーん」
「おいノブユキ、ちょっとこっちこいよ」
ノブユキはあいかわらずのまっすぐすぎる姿勢で歩いてきた。
「ノブユキ、こいつマコト。こないだオレたちの部屋に新しく入ってきたんだ」
「よろしく、ノブユキくん」
マコトが挨拶するとノブユキは話しだした。
「月を見るのはすてき」
「え?」
「小さな銀貨そっくり。どうみても、小さな銀の花。冷たくて純潔なのだね、月は」
戸惑ってるマコトにオレは教えてやった。
「こいついつもワケわからないことばっかいうんだ。意味ないから気にしない方がいいよ」
「そうなの?」
マコトは見ていいのかどうかわからない、という風にノブユキを横目で見た。
「おいノブユキ、ちょっとこっちこいよ。こいついつもワケわからないことばっかいうんだ。意味ないからあんま気にしない方がいいよ」
ノブユキはオレのいったことをそのまま真似した。これもいつものことだ。
「こうやってさ、人のいうことをオウムみたいに繰返していったりするんだ。べつに害はないから」
マコトはやっぱりどうしたらいいかわからないみたいで、居心地悪そうにしてる。オレも最初はそうだった。でもこんな人間にもいつのまにか慣れてしまっていたっけ。ノブユキはまた繰返した。
「よろしく、ノブユキくん」

病室は4人部屋で、オレとマコトとノブユキ、そしてもう一人はミノル。
ミノルはまだ小さくて、いつもオレたちの後をついてきてしつこい。
「ねえ、どこいくの? ぼくもついてっていい?」
「お前はくんなよ。動いちゃいけないってセンセーにいわれてんだろ」
「ちょっとくらい平気だよ」
ベッドからでようとするミノルをマコトと一緒にとめる。
「ぼくもいきたい。ちょっとくらいいいでしょ?」
「でも先生がダメっていってるんでしょ。寝てなきゃだめだよ」
「そーだよ寝てろよ。あ、ケイコさん。ミノルがベッドからでようとしてんだよ。とめてよ」
廊下を通りがかったケイコさんが、あらあらとミノルをなだめ始めた。
「ミノルくん、寝てなきゃだめなのよ。先生がいったことは守らなきゃいけないの。そうでないと具合が悪くなっちゃうかもしれないのよ」
平気なのに、といいながらミノルは渋々ベッドに潜り込んだ。眉を八の字にまげてつまらなそうにしている。
そのミノルのシーツを直しながらケイコさんはいった。
「ユータくんたちもミノルくんと一緒に遊んであげてよ。いまからどこいくの?」
「ちょっとそこらへん歩き回るだけだよ。ヒマだから」
「それならみんなでトランプでもしましょう。ノブユキくんもこっちにおいで、いっしょ遊びましょう」
ケイコさんが手招きすると、ノブユキはゆっくりとこっちに歩いてきた。
「なにがいいかしらね。みんなができるのがいいわね。七並べでもする?」
「りょーかい」
「ねえ、七並べってどうするんだっけ?」
「あら、それじゃあミノルくんはわたしとペアになろっか」
ミノルは満足げに頷いた。オレは七並べなんてあんまりしたくなかったけど、他にたいしてすることもないし暇つぶしにはいいかなと思ったから付き合ってやった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

高畑センセーはまだ若い医者で、オレはこの病院に入院してからずっと高畑センセーの世話になっている。つまり4年間の付き合いだ。話すと結構面白い人だからわりと気にいってるんだけど、センセーは忙しいから話すといったら回診の時か、週に何度かある個別診察の時くらいしかなかった。毎朝センセーは病室に回診しにくるんだ。
「センセーさ、こないだ退院できるっていってたよね。それっていつのことだよ」
センセーは眉を歪めてこまったなあ、という顔をした。
「悪いけどあれはなかったことにしてくれないか。こないだの検査の結果があまりよくなくてね。しばらくは入院してもらわないと」
それから今日から飲む薬を一つ増やすからね、といった。オレはこの会話が他の奴らにも聞えてしまっているのが恥ずかしくって、話題を変えることにした。
「ところでさ、マコトってどれくらい入院するの?」
「マコトくんかあ。それもちょっとわからないなあ。彼の場合はまだ検査が終わってないからね」
センセーはそういって聴診器をオレの胸にあてた。ひんやりとした感触がちょっと気持ちいい。聴診器をあてられる度に思うんだけど、オレの心音ってどういう風にセンセーに聴こえているんだろう。
はい、終わり、といってセンセーは次にマコトの診察を始めた。オレはそれをパジャマを着ながらちらと見てた。上半身はだかになって診察を受けるマコトはむきだしの腕を隠そうとはしないでぶらぶらさせている。マコトは毎朝点滴をする。血の病気だっていってたからだろうけど、入院してから点滴やら注射やらでその腕は針の跡だらけだ。オレが4年前入院したての頃も同じで、腕は針の跡だらけで、とても気持ち悪くて見られるのが嫌で夏だというのにずっと長袖を着てたっけ。だけどマコトはあんまり隠そうとする素振りをしないので、オレはセンセーが帰ってから訊いてみた。
「あのさ」
「ん?」
「お前の腕さ、針の跡だらけじゃん。そういうの見られるのって嫌じゃない?」
「嫌だよ」
「んー、あんまり隠そうとしてないからどうしてかなーと思って。オレもさ、昔はそんなだったんだ。そんとき見られんのすごく嫌でずっと隠してたんだ」
「へー。…なんかさ、あんま気にするとかえって嫌になるから、できるだけ開き直ることにしてるの。入院してるんだからこれくらいしょうがないって」
しょうがない、か。大人だなコイツは。
「んじゃーこういうこと聞いて欲しくない?」
「なるべくなら、ね」
マコトはちょっと考えて、また話しだした。
「でもあんまり気を使われるのも嫌だな。自分でもどうして欲しいのかはよくわからないけど、んー、どうにもして欲しくないっていうか。よくわかんないね」
そういってマコトは、ねえ、ユータの針の後見せて、といった。オレはいいよ、となんでもないフリをして袖をまくってみせた。針を受けた一帯は昔ほど気持ち悪くはないが、今でもわずかに跡がのこって他のところより黒ずんでみえる。へー、いいなーとマコトに見られて、本当はあんまり見られたくないのでもういいだろ、といって袖を直した。

ノブユキは午後になると別室に連れていかれる。1時間、特別の治療を受けているらしい。だけどオレにいわせれば効果なんて全然ない。ノブユキは入院してきたときからずっとあのままで、ちょっとでも良くなってるとは思えなかった。
最近マコトはノブユキによく話しかけていた。どうにかして会話をしようとしてるみたいだけど、聞いているとまったくのちんぷんかんぷんな対話だ。
「今日はいい天気だね」
「……」
「もうすぐ桜が咲くんだって。さっきテレビでいってたよ」
「……」
「僕ね、桜好きなんだ。家の近くに桜がいっぱいある公園があって、春になるといっせいにぱーっと咲くんだよ。とってもきれいなんだ。毎年そこで家族でお花見してた」
無反応。
「ノブユキくんは桜好き?」
「……さくら?」
お、反応したか? オレはベッドから顔を上げた。マコトは嬉しそうな顔で頷いている。
「そう、桜。好き?」
ノブユキはしばらく黙って、淡々とした声をあげた。
「桜の樹の下には死体が埋っている」
「え?」
マコトの嬉しそうな顔が崩れた。それにかまわずにノブユキは続ける。
「桜の樹の下には死体が埋っている。これは信じていいことだ」
「……死体が埋ってるの?」
「死体。命が無くなって、そこに横たわっているからだ」
この部屋にいる誰をも無視して、わけのわからない言葉は朗々とノブユキの唇から漏れていく。
「彼は死体のそばにとんで帰り、斧をつかんで、ふたたび老婆の頭上に振り上げた。しかし打ち下ろすことはしなかった。彼女が死んでいることは疑いの余地が無かった。かがみこんで、もう一度近くから覗きこむと、頭蓋骨がくだけ、おまけに少しばかり横にずれているのが、はっきりと見えた」
ノブユキの喋ってる内容は小説の中身だ、とセンセーが以前教えてくれた。なんでそんなのを知っているのかはノブユキの親もわからないらしい。ノブユキは一度も読んだことないはずの本の中身を正確に覚えていて、朗読してるのだという。
オレはマコトが無駄な努力をしているのがかわいそうになり、センセーに止めてもらおうとしたことがある。
「センセー、ノブユキにいくら話しかけても無駄なんだろ、さっぱりよくならないじゃん。マコトにそういってやってよ。あいつ最近ノブユキによく話しかけててさ、友達になろうとしてるみたいだよ。そんなことしても相手にされてないのにさ」
センセーはちょっと目を見開いてオレの顔を覗き込んできた。
「なんだよ」
いや別に、ととりつくろってからセンセーはいった。
「そっか。マコトくんそんなことしててくれてたんだ。これはお礼をいわないとな。いや、無駄なんてことないよ、それどころか大助かりなんだ。俺はね、ノブユキくんみたいな子には大人よりも子ども、歳が近い子達と接したほうがいいと思うんだ」
「でもノブユキ全然よくならないじゃん」
「そんなことないよ。最近ノブユキくんすごく調子がいいんだ。マコトくんのおかげだねきっと」
そうだったんだ、オレはノブユキにしてやれることなんてないとあいつになにもしてあげなかった。マトモに話せない奴だ、と相手になんかしなかった。そんなの無駄だって思ってたのに。
しょんぼりしたオレの肩にセンセーは手を置いた。
「ユータくんにも随分助けてもらってるんだよ」
「え?」
「ノブユキくん、入院してからずいぶんよくなってるんだ。以前はさ、この子を治すことなんてできるんだろうかと思うくらい手がつけられなかったんだ。表情が全然なくてね、なにを話しかけても無反応だった。まるでマネキン人形のように立っているだけで、人間らしさがなかった。だけど最近では反応を返すようになったし、表情も見せるようにもなったんだ。ユータくん、ノブユキくんとよく遊んでくれてたよね」
センセーに見せる顔がなかった。オレはただヒマだからノブユキをからかっていただけなのに。正直ノブユキとはあまり関わりあいになりたくなかったし、内心すごくバカにしてた。なんでこんな奴なんかと一緒の部屋なんだ、と思ってたのに。
「僕がなにかしてやるよりも君たちと一緒にいるほうがノブユキくんの薬になるんだ。だから仲良くしてやってね」
頷くしかなかった。
「センセー」
「なに?」
「ノブユキ、なんでああなっちゃったの?」
ふーむ、とセンセーはアゴをさすりながら、どう話していいものやらと考えてるみたいだ。
「昔からああだったのかな」
「いや、5歳くらいまでは普通だったってきいてるよ。それまではかなり頭のいい子だったんだって。言葉もだいぶ早くに覚えたそうでね。それがなんでああなっちゃったのかはだれもわからないんだ。彼の両親もどうしてだかわからなくて、病院をいろいろと回ってここにたどりついたんだ」
「生まれたときからじゃなかったんだ」
「うん」
「じゃあなんでああなっちゃったの? ノブユキみたいな奴はいっぱいいるの?」
「この病院には他にいないけど、いっぱいいるんだよ。自閉症っていってね、話すことができなくなったり、同じ行動を繰り返したりするんだ。いろいろな理由が重なってなってしまう心の病気だよ」
「どうしたら治るの?」
「それがわかれば苦労はしないんだけど」
そっか、そりゃそうだ。
「ただ一ついえることはね、ちゃんと向き合ってやることなんだ。そうなってしまったのはいろいろな理由があるから、それを一つ一つ、絡まってしまった糸みたいに優しくほどいてやるんだ」
「オレがしてやれることはないの?」
センセーは優しく笑った。「たくさん仲良くしてね」

「なあノブユキ、キャッチボールしようか」
とても天気のいい日、オレはノブユキに声をかけた。ノブユキは返事はしなかったけどゆっくりとこっちを振りかえった。
「外いってやろうぜ、天気いいからさ。ボールならあるんだ。前、母さんがもってきてくれたやつ。ほら」
ゴムボールをとりだし見せてやった。赤く輝くゴムボールにノブユキはまっすぐな視線をそそいでくる。
「な、いこう」
ノブユキはゆっくりと立ちあがり近づいてきた。ゴムボールを渡して、ふたり肩を並べ病室をでようとしたら、ミノルが声をかけてきた。
「ねえ、ぼくもいっていい?」
「だめだよ、お前はおとなしくしてなきゃいけないんだから。外にでるなんてセンセー許してくれないって。オレたちはさっきセンセーの許可もらったもん」
それでもミノルはついてこようとしたのでマコトに見張ってもらうことにした。マコトは点滴をしたばかりなのでしばらくはおとなしくしてなきゃいけないのでキャッチボールに参加はしなかった。「あとでいくね」といって、ミノルのお目付け役を引きうけてくれた。
オレとノブユキは階段を下り、廊下を歩き、外来患者でにぎわう1階をぬけて中庭にでる。普段着の人の群れをパジャマ姿で通過するのは少し躊躇いがあったが、気にしないで我が物顔で通りぬけた。スリッパのまま中庭にでていいかちょっと迷ったけど、病室に戻るのもめんどうなのでそのままでいいことにした。春らしくいい天気でお日様がぽかぽかと暖かく、空気までが芽生えてるみたいで気持ちよかった。
「外に出てよかったな」
ノブユキはなにもいわないけれどオレはとにかく話しかけることにした。
「お前さ、キャッチボールしたことある?」
「……」
「オレ、ノーコンだから変なところ投げたらカンベンな。ずっと入院してたからキャッチボールなんてぜんぜんしたことないんだよな」
「……」
「体動かすなんてひさしぶりだなー。ずっと病室だと運動しないからな。たまにはこうしたほうがいいかも」
「……」
「やっぱさ、動かないから筋肉つかないじゃん。ちょっとデブいしさ。前ジャンプの裏に広告のってたんだよ、プロテインっていってそれ飲むと筋肉つくらしいの。それ飲んでみたいってケイコさんにいったんだけどダメだって。処方された薬以外のもの飲むなって。もっと体鍛えたいんだけどなー」
ノブユキはなにもいわず、手をボールをうけとる形に組んでいた。ああ、はやくやろうってことか。
「んじゃやるか。軽ーくでたのむぜ」
ノブユキは意外と上手かった。コントロールはよく、正確に投げてくる。オレのほうはあいかわらずノーコンで、ハズしてノブユキにボールをとってこさせるなんてことが何度もあった。悪い悪い、といってもノブユキは聞えないのか、スリッパでパタパタと歩きづらそうにボールをとりにいく。気にもしてなさそうだけど。
ノブユキはあいかわらず話しは通じないけどこうしてキャッチボールをしてるとなにか会話を交わしてるような、話し合ってるような気分になった。ボールを投げるとノブユキが投げ返す。ただそれだけのことなんだけど、今までのどんな関係よりも深い気がした。暇つぶしにこいつに話しかけた時、オレはこいつを人間扱いしてなかったと思う。世話はしていた。あの病室ではオレはリーダーみたいなもので、チビのミノルとノブユキはオレが世話をしなければいけなかった。朝起きてから顔を洗って歯を磨くところから夜寝る前におしっこをさせることまで。そうしないとミノルはオネショをしてしまうんだ。オレはそうしてこいつらの面倒をみてやってるつもりだったんだけど、それはすごくバカにしていたのかもしれない。誰よりもこいつらをわかってるように思っていたけど、実は誰よりもこいつらをバカにしていたのはオレだった。オレがいなければなにもできない、って。オレのなかでこいつらを決めてしまってたんだ。それがすごくきまり悪かった。だからちょっと、ノブユキを決めるのはやめようと思った。そうすれば友達になれるかもしれない。そんなことを考えてたせいか、オレはノブユキが投げてきたボールをとりのがしてしまった。

転がるボールを追いかけたらその先にいる人が拾ってくれた。マコトだった。
「あれ、どしたの?」
「ケイコさんがもう外に出ていいって。ミノルくんはケイコさんが見ててくれるって」
そういってほら、と上を指差した。マコトの指をたどっていくと病室の窓があり、ミノルとケイコさんが手をふっていた。オレはちょっと照れくさく、小さく手を振り返す。
「僕も入れて」
「ん、じゃあオレと交代ね」
全然運動してないせいかちょっと動いただけで疲れてしまったのでマコトの登場はありがたかった。二人から少し距離をとって、日向ぼっこを兼ねて芝生の上に寝ころがる。心臓がばくばくいってる。ちょっと動いただけでこんなに疲れるのは病気と関係あるかもしれない。そういえば、センセーに外に出ていいかと訊いたとき「運動は控えめにね」といわれたっけ。
マコトはなかなか上手で、二人のキャッチボールはしくじることがない。あんな風にキャッチボールができる二人がちょっとうらやましかった。そうして二人を見てると上からケイコさんが声をかけてきた。
「ユータくん、ユータくんはもうしないの?」
「もー疲れたからしねー」
上に向かって怒鳴ると、ミノルの声がした。また騒ぎ出したみたいだ。
「いーな、ぼくもキャッチボールしたいなー」
「おめーはダメだってーの」
ミノルは病室からでるのを禁じられてて、別に意地悪でいってるわけじゃないのに、ちょっと悪いことをしてる気分になる。
「回診の時間よ、そろそろ戻りなさい」
しばらくするとケイコさんがそう上から声かけたので、病室に戻ることにした。中庭を横切って帰る途中、マコトが桜の樹をみつけた。
「もう咲いてるね」
暖かいと思ったら桜が咲くような時期か。薄桃色の花びらが日の光に透けて光っていて、蜂が蜜を採取するため飛び舞っていた。それは激しく健康的な美しさで、この先もきっとオレには持てない類のものだとわかっていた。憧れていて、にぎり潰したいほどきれいだ。
「そうだ。今度お花見しない?」
マコトが手を打って提案した。
「お花見?」
「そう。みんなでさ、桜を見ながらお弁当食べるの」
桜、と聞いてオレはノブユキの言葉を思い出した。『桜の樹の下には死体が埋まっている』。
「ふーん。センセー許してくれるかなー」
「今日だってよかったんだからきっとだいじょうぶだよ」
「でもミノルはダメかもね」
「あ、そっかー」
喜んでいた顔が急速にしぼんで、マコトは病室の窓を見上げた。そこにはもうミノルとケイコさんの姿はなかった。
「ミノルくんかわいそうだね」
「ああ」
「さっきさ、ユータ達がキャッチボールしてるの上から見ててさ、ミノルくん、ぼくもやりたいなあってずっといってたんだ」
「そっか」
「ケイコさんがきてさ、ミノルくんの面倒はわたしが見るからあなたも遊んでくれば、っていってくれて、僕もキャッチボールしたかったからこっちきたんだけど、ミノルくんに悪いことしちゃったかな。あんなにやりたがってたミノルくんの目の前でさ。一番キャッチボールやりたがってたのはミノルくんだよきっと」
「そうかもな」
「一緒に遊べればいいのにね」
「だな」
「一緒に遊べればいいのにね」
黙って後ろをついてきたノブユキがマコトの言葉を真似した。マコトは嬉しそうに「そうでしょ、一緒に遊べればいいよね、ノブユキくんもそう思うよね」といって、ノブユキはそれも真似した。
「みんなでさ、部屋で遊べるのってなにがあるかな?」
「んー、そういやこいつ折り紙得意だぜ。けっこういろんなの折れるみたいだよ」
「折り紙か。そうしよっか、今度みんなで折り紙折ろうか。ノブユキくん、教えてくれる?」
マコトはそうノブユキに話しかけ、ノブユキはまた真似した。きっとOKという意味だ。病院に入る前にマコトは桜をちらりとふりかえり、「みんなでお花見できればいいのに」と呟いた。オレは何故か仏頂面になった。マコトはまた呟いた。
「ミノルくん、かわいそうだ」
「オレたちだってかわいそうだけどな」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

その日の夜。
変な声が聞えて目が覚めた。ミノルのベッドのほうから唸り声がする。これはよくあることで、ミノルは夜になるとよく一人で泣く。家が恋しいみたいで「お母さん、お母さん」とすすり泣くんだ。無理もない、まだチビなんだから。それはよくあることで、オレはいつものことだと寝返りをうって、また寝ようと枕に頬をこすりつけた。
「ミノルくん、だいじょうぶ?」
マコトの声がした。ほっとけばいいのに、と思ったが眠くて声を出すのも面倒で放っておいた。シーツが擦れる音がして、スリッパがぺたぺた鳴る。ミノルを慰めてやるつもりなんだろうか。ミノルは低い声を出して、泣くのを堪えているのかもしれない。それならば放っておいてやればいいのに。オレだって一人で泣きたいときはあるし、そういうときは放っておいて欲しい。
「ミノルくん……?」
ちょっとおかしいな、と思った。マコトの声の調子が、何かヘンだ。
「ユータ! 大変、ミノルくんが…」
ベッドから飛び起きてミノルのベッドに駆け寄り、
その枕もとにくくりつけてあるナースコールのボタンを押して叫んだ。
「看護婦さん、センセー呼んで! ミノルが血ィ吐いてる!」
消灯時間を過ぎたから部屋は暗くて、シーツは黒くぐっしょりと濡れ不気味に光っていた。ミノルの口には液体がこびりついていて、それは喉元からパジャマまで一面に流れ出ていた。「ミノル、しっかりしろ」肩を揺らしてもミノルは反応しない。もう唸り声もとまっている。目は閉じたままで、寝ているようで、ぐったりとしていて、ひょっとして。
「どうしよう、どうしよう」
マコトがそれだけを繰り返し泣き声になってる。ノブユキも起きてきて、壊れたテープレコーダーみたいに甲高い声で無機質に「どうしよう、どうしよう」とマコトの言葉を繰り返し真似する。オレはそんな声は聞きたくなくて、「センセー早くきて、センセー早くきて」とずっとナースコールを握りしめ怒鳴った。マコトの声も、ノブユキの声もかき消えるくらい大声で。ナースコールのボタンを握りながらうつむき目をつぶる。何も見たくなかった。目の前にあるもの、今おきていることを信じたくなくて、こんなのウソだ、そんなわけない、そんなわけない。闇のなかで独り繰り返す声はいつしか祈りにかわっていた。「センセー早く、センセー早く」。声をだすことだけで耐えて、怖すぎて泣くことすらできなかった。

高畑センセーと看護婦さん2人が飛び込んできた。オレ達はとにかく邪魔にならないようにミノルのベッドから飛び散った。病室に灯りがつき、ミノルの血の染みが照らされる。それは驚くほど真っ赤で、不吉で、怖いくらい大きく広がっていた。センセーと看護婦さんは血まみれのミノルをベッドごと運んでいき、病室にはオレたちだけが残った。

◇□◇□

翌日、回診にきた高畑センセーにオレ達はつめよった。
「センセー、ミノルどうなった?」
「だいじょうぶだよね?」
センセーはまあ落ち着きなさい、と手で合図した。
「ミノルくんは今集中治療室にいる。もうだいぶ容体は回復したからだいじょうぶだよ。まあ様子を見なきゃいけないのですぐここに戻れるってわけにはいかないけど、もう心配はいらないよ」
そっか、無事だったんだ。その言葉に安心したはずなのに落ち込んでしまう。マコトはよかったあ、と喜んでいたけどオレはそうできなかった。
「ユータくん。ユータくんが教えてくれたんだってね。ありがとう。もう少し手当てが遅れたら万が一ってこともあったかもしれなかったよ」
そんな、オレは、ミノルの声を聞いても無視していたのに。
「センセー。礼ならマコトにいってよ。マコトがさ、見つけたんだ。だからマコトのおかげなんだよ」
そうなんだ、と先生はマコトにもありがとうをいった。
「ユータくんもさ、いつもみんなの面倒を見てもらってとても助かってるんだよ。ミノルくんはまだ小さいからなあ、ちょっと目をかけてくれる人がいると助かるんだ。今回のこともそうだけど、いつもありがとうね。マコトくんも一緒にさ、みんなの面倒頼むよ」
そのとき自分でもわかったけど、弱弱しい笑いというやつで返事をした。
センセーがでていったあと疲れがどっときて、オレはベッドに倒れ込むように横になった。

目が覚めたらもう昼過ぎだった。ひょうしぬけするほどあっさりとした目覚めで、ちょっときまり悪く体を起こしたらマコトとノブユキがなにかしてるのが目に入った。何をしてるのかな、と見ていたらマコトが気づき顔を上げた。
「あ、おはよう。よく寝たね」
うん、と体を掻きながら頷いた。汗をかいてしまった。とりあえず着替えよう。
「はい、これお昼。とっておいてもらったから、食べ終わったらナースステーションまで運んでってケイコさんが」
シャツを脱いでたらマコトが昼ご飯をもってきてくれた。ありがとう、といった声が擦れた。喉が乾いてる。水を飲もうとペットボトルをとったら、マコトと目が合った。
「なに見てんの?」
「あ、いやちょっと」
マコトはなにかオレの体をちらちら見ていて、オレはああ、このことか、とすぐわかった。
「腹のことだろ」
「あ、うん」
マコトが見てるところ、つまりオレの腹にはぶつぶつと赤い斑点がびっしりと浮かび上がっている。そこら一帯は肌が厚くなっていて象の皮膚みたいで、かさぶたみたいなので固まっていた。
「薬の副作用でさ、こうなっちゃってるんだ。センセーが説明してくれた。だから本当はそれ飲みたくないんだけど、その薬飲まないともっと悪いことになるんだって」
「痛くないの?」
「動くときちょっと抵抗があるかな」
「ふーん、すごいね」
オレはこれを見られないように着替えの時気をつけていたんだけど、今日はもうどうでもいいような気がして、ついうっかり見せてしまった。見られてそんなに辛くもなかったけど、すごいね、といわれて、ああ、やっぱりすごいよな、と思った。自分で見てみてもそこはすごく異様だ。オレには他にもすごいところがいくつかあって、それもこのさいマコトに見せようかと思ったけど、やめてパジャマを着た。

遅い昼ご飯を食べながらマコトとノブユキがなにかをしてるのを見ていた。なにをあんなに熱心にしてるのだろう。ナースステーションに食器を返して、戻ってきてもまだ続けているのでのぞいてみた。2人は折り紙を折っていた。
「これさ、ミノルくんに千羽鶴折ろうと思って」
もう何十羽も折られてあって、ベッドの上ににぎやかな色をばらまいている。オレはそんなものでミノルが治るわけないと思ったけど、他にすることもないので手伝うことにした。鶴の折り方はノブユキが教えてくれた。とはいってもノブユキは喋らないので折るのを見てお手本にする。マコトとノブユキはキレイに折って、立派な鶴ができあがるのに、オレのは折り目がガタガタで、不恰好で倒れそうだ。ちっとも鶴に見えない。マコトに教えられて、ノブユキのをいくら真似てもうまく折れない。いくら折ってもうまくできない。ひょっとしてこんなにも下手なのはオレが本当はミノルのことなんて全然心配してなくて、あいつが治ることなんて期待してないからかもしれない。心がこもってないからうまく折れないのかもしれない。オレはミノルなんて相手にしてなくて、いつもついてきて鬱陶しくて、邪魔者扱いしていて、あいつが部屋からでれないのをわかっていてワザと外に遊びに行って見せつけてやって、意地悪をしていて、だからオレはミノルのことなんて心配してるわけなくて、この2人はきっと心の底から心配していて、治って欲しいと思っているからキレイな鶴が折れて、オレは本当は心配してるふりだけで、そうでないと冷たいヤツだと思われるから、だから心配してるふりをして鶴を折って、だけどその気持ちは不恰好な鶴に表れていて、「お前はミノルのことなんてどうでもいいと思ってるんだ」といっていて、本当はミノルのことなんてどうでもよくて、
「どうしたの?」
顔を上げると二人が手を止め、心配そうにのぞきこんでいた。
「なんか、ユータおかしいよ。先生呼ぶ?」
「いや、いい、そんなんじゃないんだ」
そう呟いて鶴を折るのを続けようとして、折りかけの鶴はガタガタで、折りあげてもみっともない折り鶴になるんだろうな、というのは一目瞭然だ。見てみるとオレの折った鶴と2人が折ったのとは違いはすぐわかるほどで、オレはつくづく自分が嫌になって折ったのを全部握りつぶしゴミ箱に捨てた。
「ユータ、どうしたの?」
ベッドに戻るオレの背中にマコトが心配そうに声かけた。それはまるで病人相手に話しかけてるみたいで、当たり前だ、オレは病人なんだもの、この病室の中で一番の病人だ。4年間も入院していて、治る見込みなんてない。ずっと病院暮らしで、普通になんてなれないんだ。
「ああ、オレいいよ。なんかうまく折れないし、いくらやっても無理みたい。ミノルもさ、2人に折ってもらった方が喜ぶだろうし、オレのみたいなみっともない鶴が混ざっちゃあ見た目悪いだろ。オレが手伝っちゃあかえって邪魔だし、ミノルも喜ばないよ。2人で折ってやってよ。そのほうがいいよ」
自分でもどうしたんだ、と思うくらい元気ない声で、だからかマコトはなにもいわなくて、それがかえって辛かった。なんにも考えたくなくて、またベッドに潜り込んだ。
もしマコトがいなければオレはミノルのことなんて放っておいて、ミノルは死んじゃってたに違いない。

夜になって消灯時間がきても眠れなかった。昼間寝すぎたからかもしれないけど、全然眠くなくて、暗い病室の天井を見上げながらぼんやりと時計の秒針が刻む時を聞いていた。昨日の夜はあんなことがあったのに今日の夜は普段の夜とかわらず、いつもの夜で、なのに昨日はミノルは血を吐いて倒れた。昼間はあんなに元気そうだったのに。オレ達みたいな重病人はいつ倒れるかわからず、オレもああなるかもしれない。それは怖いことなんだろうか。死んじゃうかもしれないんだから怖いんだろうけど、何故かそういう気持ちにまったくなれず、闇に浮かぶ天井のようにぼんやりとしてた。オレは不思議なほど落ち着いていて、ただとにかく静かだった。
「なあ、マコト」
天井を見ながらつぶやくと、少したってから「なあに」と声がした。起きたばっかりの声じゃなくて、マコトも寝てなかったらしい。
「あのさー、桜、見にいかねぇ?」
「お花見?今から?」
「そう」
「ああいうのって昼間するもんじゃないの?」
「夜でもいいじゃん。夜桜だよ」
「へー、そんなのあるんだ」
「オレさ、時々一人で夜に桜見にいくんだ。病院の屋上までいってさ。夜の桜、きれいだぜ。一緒にいかねぇ?」
しばらく音がなかったが、シーツが擦れる音と共に「うん、いく」と返事がきて、マコトが闇の間からぼんやりと姿を現した。オレはゆっくりと上体をおこし、「んじゃいくか」といってスリッパをはいた。
「ノブユキもいくか。花見だぞ」
返事はなかったけどノブユキもおきてきて、オレたちは3人で夜桜を見に行くことになった。夜の病院の廊下は真っ暗で、消防器具があることを示す赤色の灯りだけが闇に浮かんでいる。
「ちょっと怖いね」
マコトがそういってオレのパジャマをにぎってきた。ふりほどくのも意地悪だと思ってそのままにしてやる。暗い中、3人の子どもたちは屋上へ向かって歩く。
「ノブユキついてきてるか?」
「うん、きてるよ」
マコトがこたえ、オレたちは暗い廊下を並んで進んでいった。すぐ目の前も黒に塗りつぶされていて、壁をさすりながら恐る恐るの進行だ。何度も通っていて、目隠しをしても平気で歩けると思っていたはずの廊下はいつもよりも長く、深く、どこまでも伸びている気がする。闇に吸いこまれていくようで、このまま歩いてもどこにもたどりつけないかもしれない。散々さ迷った挙句にいける先はなくて、戻ることも立ち止まることもできず、無駄だと知りつつただひたすらに突き進んでいくだけで。そんな気がするほど支配的な闇だった。
「こっから階段。気をつけろよ」

重い扉がケモノのような声を上げ、オレたちは屋上へでた。沈黙に静止している院内のとは違い、春の夜の空気は動きがあって、ほのかに湿ってやわらかく暖かだ。遠くからクラクションや、車のエンジン音が聞こえる。院内よりも外の方が明るかった。
「ほら、こっち」
手すりのほうへ歩く。
「ここから桜が見えるんだ」
「うわぁ…」
そこからは病院の入り口側が見渡せ、桜の樹が道沿いに続いている。街灯に照らされて夜桜は無言に花を咲かせ、どんなものよりも静かに生命を主張していた。
「すごい」
「うん、すげーな」
どんな賛美の言葉も追いつかないのでオレ達は黙って夜桜を見ていた。すごすぎるものを前にすると言葉はでない。ただ圧倒されるだけだ。
そのまましばらく眺めていたら、ノブユキが唐突に「小さな銀貨そっくり」といった。なんのことかとノブユキの視線を追ったらそこに満月が浮かんでいた。
「うわ、真っ白。鏡みたい」
それはコンパスでかいたような満月で、純粋に白く、光は優しく流れ花のように地上に降りそそいでいる。桜が月の光を流し、優雅に羽を広げていて、あまりにきれいすぎてオレは他の存在を忘れてしまった。月と桜しかなく、光と花弁以外が消えた。ゆっくりと、泣きそうな気分になった。
「ミノルくんにも見せたかったね」
マコトの声が聞こえ、頷いたらミジメになり、涙をなんとか堪えようと必死で手すりをぎゅっと握りしめた。マコトがこっちを見てるのはわかったけど顔を合わせることができない。そんなことしたらきっと泣き出してしまう。
「ユータ、さっきからヘンだよ。どうしたの?」
心配そうな声がして、やめてほしい、ちょっと放っておいてほしくて、ここにいてほしい。
オレがなにも反応しないでいると、マコトは静かに横にいてくれた。なにもいわないで、夜桜を見ていた。それだけでオレは嬉しかった。少し落ち着くことができた。
「……ミノルはかわいそうだ」
マコトが「うん」といった。喋りたいのか喋りたくないのかわからないけど、口から言葉がでてきた。涌き水みたいに言葉があふれてきた。
「あいつさ、ベッドから動いちゃいけないってセンセーにきつくいわれてて、それでもオレの後ついてこようとしてたんだ。病気だから動いちゃいけないんだ。センセーがさ、だからなるべく部屋で一緒に遊んでやってっていって、オレはなんか嫌だったんだよね、だってあいつ年下だし、ガキのおもりなんてカンベンしてくれよって思ってて、だからオレ、ワザと外にいくようにして、そうするとあいつついてこようとするじゃん、それわかっていて、意地悪でおまえは動いちゃいけないんだからついてくんなよって」
夜風が額をぬぐった。優しく撫でられたみたいだった。
「オレ、あのとき、ミノルの声きいてたんだけどさ、無視してたんだ。いつもさ、夜泣くじゃんあいつ、またかって思って、だから無視してたんだ。聞こえてたのに」
話しているうちにまた泣きそうになり、うつむいた。
「だから、だからオレだけだったらミノルは死んじゃってたかもしれない」
そうしたらオレがミノルを殺したことになるんだ。オレはあいつを殺しかけたんだ。
「それは違うよ。だって僕、ミノルくん見つけて、どうしていいかわからなかったもん。あのときさ、ユータがいなかったらそれこそどうなってたかわからなかったよ。ユータがセンセー呼んでくれたおかげでミノルくん助かったんじゃん。だからユータのおかげだよ」
「でもお前がいなかったらオレずっと寝たフリして、ミノルのことなんて気づかなかったぜ」
「うん、でも僕だけだとセンセー呼べたかどうかわからないし」
そしてマコトはいった。
「だから2人いてよかったんだよ」
オレはそれでいいような気がして、「ああ、そうだな」といった。でもぐちゃぐちゃした気分は収まらなかった。

「あいつはさ、悪くないんだよ」
鼻の奥がつんとなって、啜るとズズッと泣き虫の音がした。
「病気なのはあいつのせいじゃないんだ。あいつはちっとも悪くないのに、なんであいつがあんな目にあわなきゃいけないんだよ。ずっと病院にいてさ、動いちゃいけないなんてかわいそうだ。あいつ動きたくてたまらないんだ。キャッチボールしたりしてさ、普通に遊びたいだけなんだ。それなのに禁止されてて、でもあいつそれわかっていて、ちゃんとおとなしくしてたのに、なにもしてないのにあんな目にあっちゃうなんて。あいつちゃんとセンセーのいうこときいてたんだよ。なのになんでああなっちゃうんだよ。なんであいつがあんな目にあわなきゃいけないんだよ。あいつ全然悪くないじゃないか。なのに、なんで」
1度吹き出したら止まらない。今まで溜まっていたものが次々とあふれてくる。
「オレ達だってそうだよ。オレも、お前も、ノブユキもさ、なんでこんな目にあわなきゃいけないんだよ。なんでこうなっちゃってんだよ。オレ達が悪いわけじゃないじゃないか。なのになんでこんなして、ずっと入院してなきゃいけないんだよ。他のやつらがさ、普通に学校いって暮してるのを、なんでうらやましいなんて思わなきゃいけないんだよ。そんなのちっともうらやましいものなんかじゃないよ。普通のことなんだ。普通のヤツはそうやってなんでもなく暮してて、自分が幸せなんて思ってなくて、なんでもないことなんだよ。なのにオレはそれがうらやましい。オレは普通になりたいだけなんだ。普通に暮してさ、学校にいって、友達と遊んで、家に帰る、そんな生活したいだけなのに。オレ、贅沢なんていってるわけじゃないはずだよ。これって普通のことなのに。なんでオレ達、そんなことすらできないんだよ。なにか悪いことしたっていうのかよ」
オレはずっと、そんな普通のことがしたかった。みんなができることをやってみたかった。サッカーとかして遊びたかった。べつに特別にうまくなりたいわけじゃない、ただ普通にしてみたかっただけなんだ。
「ずっと入院していて、外で普通に遊ぶことすらできない。毎日点滴したり、薬のんだりで、それでもよくならない。なんでなんだよ。なんでオレこんなになっちゃったんだ。オレさ、普通になりたいだけなのに。お前だってそうだろ? ミノルも、ノブユキだって、なんでこうなっちゃってんだよ。オレ達、もっと普通になれてたはずだよ。病気なんてならなくてさ、普通に遊べてたはずだよ」
マコトはしばらく黙って聞いてて、ぽつりと「僕も普通になりたい」といった。そしてしばらく無言で、車が走る音を聞いていた。
「あのさ、……あのさ、よくわかんないんだけど、僕も普通になりたいよ。それで、入院なんかしなくて、友達と遊んでて、そうしていられたらよかったって思うよ。だけどさ、そうしたらユータ達と会えなかったんだよね。病気して、入院したから知り会えてさ、だから、病気したのがよかったなんていいたくないけど、でも、ユータ達と会えないのは嫌だし、会えてよかったと思うんだよね」
マコトのいってることはよくわかった。オレもそれは考えた。だけど、だけど
「それが一番問題なんだよ」
もう泣くのをこらえることができなかった。涙と鼻水が流れてオレの顔は情けなく歪んだ。オレは今、世界で一番ミジメだ。
「それがなきゃ全部憎むことができたんだ。嫌いになって逃げることもできたかもしれないんだ。だけど、お前らみたいのがいてさ、ケイコさんや高畑センセーとかいて、こんなくだらない人生にも出会いがあって、みんないいやつじゃん、だからちょっといいかな、なんて思ってしまう。みんな嫌なヤツだったらよかったんだ。そうしたら躊躇することなく捨てられるんだ。だけどみんないいやつで、だからよかったなんて思っちゃうんだ。会えてよかったから、入院して、少し幸せかもしれないなんて思っちゃうんだ。バカじゃねえの、入院して幸せなんてわけないじゃん。病気でさ、4年間も病院暮らししてて幸せなんて、すんげーバカだよな。だけどちょっとでもそう思っちゃって、捨てられなくて」
もう言葉はでなくて、泣くのに占領されてしまった。涙と鼻水が止まらない。そんなオレにマコトはポケットティッシュを差し出してくれた。ありがとう、といって鼻をかみながら思った。本当にこいつらはいいヤツすぎる。もっと嫌えたら耐えなくていいのに。全部諦められるのに。こんなやつらばっかりいるから捨てられないんだ。嫌いになりたいのに。でも本当は好きでいたかった。だからよけい辛くて、オレはどうしていいかわからなくなる。

 

鼻をかんだら落ち着いてきた。泣き顔を見られたのと盛大に泣いてしまった恥ずかしさとで居心地が悪くて、はやくもとの自分に戻りたい。
「あのさあ、ユータ」
マコトが遠くを見ながらいった。見てるのは月か、桜か。
「入院するときにおばあちゃんがいってくれたんだ。僕さ、入院するのすごく嫌で、しょげてたら、おばあちゃんが幸せになれるおまじないを教えてくれたんだ。夜になって寝るとき、1日で一つ楽しかったことを思い出しなさい、そうすれば幸せになれるよ、どんな辛いこともがまんできるよって。きっと1日に一回は楽しかったことがあるはずだから、それを思い出して寝なさいって。それから僕は毎日なにかを思い出しながら寝てるんだ。昨日キャッチボールしたのを思い出してた。そうするとね、なんか楽しいのがよみがえってきて、ぐっすり眠れるんだよ」
楽しかったことか、オレにはそれすらないかもしれない。1日に一回、楽しいことなんてなかったかもしれない。そういったらマコトは優しく教えてくれた。
「そしたらさ、楽しいことをつくればいいんだよ。今日寝る用の楽しいことをしておけばいいんだ。そしたらだいじょうぶだよ。たいしたことじゃなくていいんだ。ほんのちょっとでいいの、ほんのちょっと、楽しいこと、嬉しいことをすればいいんだ」
マコトのばあちゃんはいいこというな。鼻をすすりながらそう思った。

「あのさー、オレだっていっつもあんなこと考えてるんじゃないんだぜ」
顔を合わせるのは恥ずかしくて、桜を見ながらいった。
「あんなことって」
「だから、さっきいったこと」
「うん」
「たださ、時々落ち込んじゃって、そう考えちゃうんだ。オレってどうしてこんななんだろう、もっと違うふうになれたんじゃないのかなーって」
「わかるよ」
「だけどさー、やっぱ慣れるしかないんだよな、自分自身に。なにがあっても受け入れるしかないよな。病気になったのとかさ。もしこうだったらなー、なんて考えてもしかたないじゃん」
「そうだね」
そしてオレはいつもに戻れるように、ふざけた調子で話しかけた。
「ただどうやって慣れるかってのが問題なんですけどねー、マコトくん」
「そうなんですねー、ユータくん」
マコトものってきてくれて、2人して笑った。こいつとはいいコンビになれそうだ。
「あのさ、明日鶴の折り方また教えてくれないか」
「いいよ。手伝ってくれるんでしょ」
「うん、そうしよっかなーって」
マコトは笑いながらノブユキのほうを向いた。
「ユータ折ったの捨てちゃったじゃん。それさ、ノブユキくん拾ってくしゃくしゃになったの直してくれたんだよ。やっぱりさ、ミノルくんもユータ折ってくれたほうが嬉しがるよ。ノブユキくんもそうだって。それに千羽も折らなきゃいけないんだしね、人手は多い方がいいし」
そっか、そうなんだ。ノブユキはあいかわらず無反応でこっちを見なかったけど、オレはなにかわかった気がした。
「さっきの話さ、寝る前に楽しかったことを思い出すっての、お前、今日はなにを思い出すの?」
「んー、月と桜だね。すっごくきれいだもん」
「そっか。オレもそうしよっと。ノブユキもそうしろよ。寝る前にさ、月と桜を思い出しな。みんなでそうしようぜ」
ノブユキはゆっくりと月を見上げながら、「小さな銀貨そっくり」といった。
「またそれかよ、なんだよそれー」
月に桜、今日はこれだけか。今日一日はとにかく幸せになれそうだった。だけどオレって飽き性でエスカレートするタイプだからすぐに物足りなくなって、そのうち大統領にでもならなけりゃ幸せになれないかもしれない。そういったらマコトは笑いながらいった。
「大統領、なればいいじゃん」
「おー、なってやるさ。大統領、なってやるっつーの」
「そしたら贅沢できるねー。そん時は僕らも呼んでさ、楽させてよ」
「おーいいともさ」

夜風がちょっと冷たくなって、そろそろ帰る時間らしい。
「また明日も夜桜見にこねぇ?」
「いいよー。あ、でも明日雨がふるらしいよ。そうなると散っちゃうかも」
「げ、そうなんだ。ならもうちょっと見てよっか」
手すりによりかかりながら、いつかみんなでお花見をしたい、と思った。
月は明るく、桜は優雅に咲き誇り、オレはいろいろな想いを捨てられずにただただ眺めていた。

 

<終わり>

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