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故郷・能登のこと

こんにちは、はんなです。


今日は私の大好きな故郷・能登について、
少しお話をしてみたいと思います。


因みに写真は観光名所のひとつ、白米千枚田です。
日付を見てみると、9年前の今日撮影したものでした。

梅雨の季節、田んぼにとっては恵みの雨ではありますが
そんな雨空を映しているので、海面がどんより雲カラーです。


青空の下、青緑の鮮やかな日本海も好きですが、
真冬の荒波が岩やテトラポットにぶつかってできる
波の花の海も、全部ひっくるめて本当に大好きです。


私は小学校まで、海まで歩いて3分くらいのところに
家族5人で暮らしていました。


窓を開けると波音と磯の香りがからだいっぱいに飛び込んでくる
そんな幼い頃の懐かしい記憶があります。


その後実家は海から離れたところに引っ越し、
私も今は関東在住なので、海とは縁遠くなってしまいましたが
年に1回はお墓参りも兼ねて、帰省しています。



能登といえば、今年の元日夕方に起きた地震が記憶に新しい
と思います。


当時6歳・3歳の子ども達を連れて
親族で新年を祝うために、いつものように帰省していまして
まさにあの時、実家で震度7を経験しました。


実は、その7ヶ月前の5月にも帰省していまして
その時も震度5を経験しており、下の娘なんかは
「ばぁばのお家はいつも揺れてるね」と言うくらい
私たちが帰省すると地震が起きてしまうタイミングに
なっていました。


元日の震度7、本当に凄まじかったです。
揺れがどんどんひどくなって、なかなかおさまらない。

ようやくおさまった後、倒れた家具や散乱したガラス片を
避けながら、家の外に出てみました。


ご近所の方達もそれぞれ家から出てきていて、
これからどうしようか、ここまで津波が来るかもしれないと
皆で次の行動について話し合っていました。


無我夢中で家から出てきましたが、ふとまわりを見渡してみると
家の前の道路が片側だけ、大きな亀裂が数十メートルにわたって
できていました。
まるでパウンドケーキのように見事に割れてしまっていました。


地震が起きて1時間ほどの間、遠くの方で地鳴りがずっと響いていて、
我が子達や甥姪は怖がっていたので、車の中に避難させていました。


もう暗くなってきていて、最寄りの小学校へ避難しようということで
大きな車を持っている方が何往復かしてくれて、
ご近所さん全員で避難することができました。

学校に着くと、もうすでに避難所として機能し始めていました。


まさか母校で一晩ダンボールの上で雑魚寝をする日が来るなんて・・・


夜中にトイレのためにプールの方へ向かう時、
遠くの空が赤くなっているのが見えました。

どれくらい燃え広がっているのか
リアルタイムでは把握することができず。



これからどうなっていくのだろう。


絶えず続く余震にひたすら怯えながら
頭の中もなかなか整理できない中、
皆で寄り添って一夜を過ごしました。



翌朝、もともと私たちは関東へ帰宅する予定だったため
実家へ戻り、荷物をまとめて故郷をあとにしました。



どこで道が寸断されているか情報が得られないままでしたが、
時には夫に車から降りてもらい数センチ単位で誘導をしてもらいながら
能登地方から脱出し、12時間かけて関東の自宅へ帰ってくることができました。



亡くなった方や今も辛い思いをされている方が多くいらっしゃるので、
とても不謹慎であるということを重々承知でお伝えするとすれば・・・


自然の前に、ひとは完全に無力である、ということです。


大地震だったとはいえ、ひとが長年かけて築き上げてきたものが
一瞬にして崩れ去ってしまいました。


「私たちは自然の中に、住まわせてもらっている」


このことを忘れず。

これからを生きていかなければと、再認識したのでした。


今、自分にできることを、少しでも前に進めていく。

これが大切なのです。

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