見出し画像

どうにかもう1回話せるように

コトコ 能勢 邦子

月曜日11:00ごろ電話が鳴る。登録のない携帯番号だ。「コトコさんですか。佐藤(仮名)と申します。『失語症からの言葉ノート』を見て電話しました」。高齢の男性読者からだった。「最後のページに書いてある、この言語聴覚士ってなんですか。実は妻が失語症になってしまって、どうにかもう1回話せるようにしてやりたくて」。

え⁉︎ 失語症になったのに言語聴覚士が付いてない?「言語聴覚士は失語症のかたの検査、評価をして、そのかたに必要な訓練、指導をするリハビリ専門職です。失語症と言われたんですよね。病院でリハビリをしていないですか」。していない、言語聴覚士の存在自体知らなかった、と答えた佐藤さんに、病院名を伺い、その場でネット検索し相談窓口の電話番号をお伝えした。その病院は地域の中核病院であるうえ、佐藤さんの住む県は私が知る限り言語聴覚士協会や意思疎通支援者の活動も盛んなところで、それでも、こんなふうに漏れてしまうことがあるんだなぁと思った。佐藤さんはご自身のこと、奥様のことを朗らかに話してくれて、「さっそく連絡してみます」と電話を切った。私はすぐ病院の相談窓口に電話をし、ご夫妻の名前と言語リハビリについて旦那さんから連絡が行く旨を伝えた。
火曜日9:00前に電話が鳴る。昨日の番号だ。「佐藤さんですか。おはようございます。相談窓口はいかがでしたか」。佐藤さんは相談窓口に予約をして、わざわざ出向いて話をしてきたという。「私も92歳ですから動けるうちに…」。しかし、もう退院しているので言語リハビリはできないと言われたそうだ。それにしても入院中もリハビリがなかったなんて。リハビリもせず退院させたなんて。「奥様が失語症と言われたのはいつですか。いつ退院なさったのですか」。昨日最初に聞くべき質問だった。「えーっと」電話口で指折り数字を数えてから佐藤さんは言った。「10年、いや11年経ちますか」。むむむ。そういうことか。驚く私を察して佐藤さんは畳み掛けた。「もう治りませんか。どうにかもう1回話せるようにしてやりたくて」。リハビリ全般にいえることだが、言語リハビリも発症直後から始めるほうがよく、10年も経過すると目に見える回復は難しくなる。ただ一方で、3週間、3か月、3年、最初はグググッと良くなるが、10年経っても緩やかな回復を実感している失語症のかたがたもいる。そういった手記を読んだことを伝え、佐藤さんを励ました。奥様に体の麻痺はなく、11年間、大きな事故もなく日常生活を送っていると聞いて少し希望を持つ。
水曜日9:00過ぎに佐藤さんに電話をする。佐藤さん最寄りの地域包括センターの連絡先を伝え、ソーシャルワーカーやケアマネージャーに繋がったほうがいいと説明した。さらに佐藤さんの住む県の言語聴覚士協会に電話をして相談した内容も書き留めてもらった。言語聴覚士協会のかたも、「10年前はまだ制度も確立してなかったかもしれないですねぇ」と同情的で、言語リハビリを受けられる施設、訪問リハビリやオンラインリハビリなど相談できる窓口を紹介してくれた。保険はきかないんですが…と言うと、佐藤さんは「いい、いい。自費でも構わない。いくらかかったっていいから、どうにかもう1回話せるようにしてやりたい、それだけなんだ」と喜んでくれた。そして次々に奥様の話が弾む。教会の讃美歌サークルに入っていて、天使のように美しい歌声なのだそうだ。「あ、歌を聴かせるのもいいかもしれませんね。話す言葉が出なくても、歌いながら歌詞なら出るというかたもいらっしゃいますよ」と言うと、「そうですか!」とうれしそうな声をあげた。「讃美歌のこと、忘れていました。やってみます。娘がいるんですけどね、医者に嫁いでるんです。妻と同じで歌が好きで、あれはシャンソンだったかな…」。ご家族のことも少し話してくれた。
木曜日、今日は電話がないな、ソーシャルワーカー見つかったかな、お2人で讃美歌を歌っているかもしれないと思っていたら、16時ごろ電話が鳴った。佐藤さんの声は少し沈んでいた。「今日、妻のところに行って、讃美歌を聴かせたんですけど、あまりうまく行かなかったです」。え、また少し驚いた。佐藤さんご夫妻はご自宅にいらっしゃるものと思い込んでいた。聞けば、奥様は施設に入っているという。「佐藤さんが話しかけることは理解できていますか。どれぐらい話せるのでしょう」。これも最初の最初に聞くことだった。佐藤さんの話から想像するに、どうやらかなり重度で、言語リハビリの段階ではないのかもしれない。施設にいるとなると、地域包括センターの管轄ではないし、それこそ使える言語リハビリのサービスも限られてくる。「ごめんなさい。昨日お伝えしたサービスはいったん忘れていただいて。やはり施設のかたか誰か近くにいるかたに相談できるといいですよね」。「それが誰もいないんですよ。もう1回だけ、どうにかもう1回だけ、話したいんです。何か方法はないですか」。もはや素人の出る幕ではないとわかっているのだが、私のような藁をもすがる佐藤さんに、どうしたものかと悩む。
一晩考えたことをお伝えしようと、金曜日また9:00になるのを待って佐藤さんに電話をする。「はい?」と中高年女性の険しい声がした。「コトコの能勢と申します。佐藤さんの携帯電話でしょうか。失語症の奥様について相談を受けていまして」と言うと、「あー」と深いため息のあと、「父は認知症です」と話してくれた。あちこち電話をして困るから携帯を取り上げ今日にでも解約するつもりだということ。そして佐藤さんの奥様、女性のお母様は施設に入って10年以上経ち、すでに意識もない寝たきりの状態だということ。あまりのショックに、「ご迷惑おかけしました」という女性に、「お父様、娘さんのことも自慢なさっていましたよ。お医者様と結婚なさったとか、お母様に似て歌がお上手だとか」と取り繕うのが精一杯だった。

【コトコというレーベルで失語症のリハビリノート『失語症からの言葉ノート 聴く、話す、読む、書く、楽しみながら言葉がつながる』を刊行しています。
https://shitsugo.com
たまに読者から電話をいただくのですが、失語症の背景はさまざまで毎回いろいろ考えさせられます。読者が特定できないように配慮しましたが、そんなとある1週間の日誌です】

コトコの本の一覧


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?