「自分の中に地雷があると初めて気付いた」2022/6/14

・「地雷」という単語がネットスラングとなって久しい。何らかのコンテンツのジャンル、もしくはその中の事象に対して生理的嫌悪を抱き、その作品そのものを受け付けられない、という対象が「地雷」だと認識している。今回いわゆる”地雷”について書くが、対人兵器をスラングとして使う軽薄さとか、その是非についてはまた別の話だ。

・今日、自分の中に地雷があることに人生で初めて気付いた。

・基本私は嫌いなものが少ない。コンテンツに限っていえば、およそ全てのものに肯定的な目を注いでいる。映画でも本でも音楽でも、あらゆるものは素晴らしく、それを楽しめないのは自分の感性が未熟であるか、老いらくしすぎているかのどちらかだと思っている。どのジャンルの作品であっても、そこには多くの労力や大勢の時間が注がれているはずで、簡単には否定できない、という心積もりもある。

・そんな中、自分の中でどうにも受け入れがたい映画があった。鑑賞し終わって、あぁこれが”地雷”というものなのかもしれないな、と思った次第だ。作品名や細かい内容を伏せて少し書く。作品に対する批判というより、自分の中に新たに芽生えた感情のログとして。

・その映画はいわゆる「家族ドラマ」ものだった。母と娘が経験を経て、双方への向き合い方を変容させるタイプのやつ。私自身、家庭環境に複雑なトラブルや禍根がない(これは単にツイていたというだけ)し、それは別にしても家族ドラマは嫌いではない。

・この度観た映画の中で私が「地雷」であると感じたのは、「見方によっては毒親である人物に対する、無自覚でポジティブな作品全体の肯定感」だ。

・毒親が登場する作品自体は楽しむことができる。タコピーの原罪もちょちょいのちょいである。毒親が登場する作品において彼/彼女はフラストレーションを読者に貯めさせるためのキャラクター、もしくは作品を展開させるための舞台装置である。たまに問題提起としての役割もあるか。
ただ、今回私が地雷を感じた親は「過干渉タイプ」であり、娘想いが故に距離感の近い行き過ぎた行動をしてしまう母親だった。それがたしなめられるのであればまだ分かるが、それが愛ゆえの行いだとコミカルに肯定の文脈で描かれていたことに辟易としてしまったのだ。「まったくA子ちゃんのためにママが暴走しちゃって大変ね~」というコミカルさを描くコメディで、A子ちゃんの自意識は無いものにされる。その様子、空気感にひどく心がざわめいて、どんな残虐なホラーより、子供や動物が死ぬ描写より締め付けられる気分になった。

・家庭内暴力やネグレクトは分かりやすい毒親の家庭問題として描かれるが、過干渉に関しては「愛ゆえの」「心配だから」の行いとして”笑い話”として丸め込まれてないだろうか。

・「子供は未熟であり、故に保護者の責任・管理のもと健やかに育つべきである」というのはまさしく正論だ。しかし、子供を人格を持った一個人として尊重するのも必要なことではないか。その映画の中は親の愛情を中心に展開しつつも、親の自己満足の道具として子供が一切使われていないかというと考えるところだった。一方向的な善意というのは厄介なものだ。

・昨今あった「毎日かあさん」を巡るトラブルで私がナイーブになりすぎていただけかもしれない。「毎日かあさん」自体、私もかつての読者で、登場する娘の意思や感情を透明にしてコンテンツとして消費していた負い目がある。

・子供へ愛情を注ぐ親のあり方に対して、子を持たない私がとやかく考えるのもお門違いだし、認知の歪みがそこにあるかもしれない。

・それでも、家主である親とその保護下にある子供の関係で、親からの一方向な過干渉行為を美談面白コメディに仕立て上げるのは、私にとっては地雷だった。人生で初めて気付いた。

・何よりも驚いたのは、映画レビューサイトやtwitterで「感動した」「羨ましい」「最高の親子関係」と肯定的な意見が概ね多かった点だ。確かに魅力的な映像、評価できる箇所もあったし、面白いといえる部分もあったけど……。やはり歪んでいるのは私の方か。



・なんかネガティブな文字ばっかりなnoteになってしまった。最近見つけた良かったものだけ貼って終わるか。


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干されてるワンワン


【今日得た知識】
・「キリマンジャロ」の区切り方は「キリマ・ンジャロ」。キリマ=山、ンジャロ=輝く。

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