伝光録 第四十一祖 |後同安丕《ごどうあんひ》禅師

さきの同安大師である同安丕に、後同安大師が参じて曰く、「古人が曰く、『世人せじん[1]が愛する処を、我は愛せず』。いぶかし[2]、いかなるかこれ、同安丕和尚が愛する処。前同安は曰く、「すでに恁麼いんも[3]なることを得たり」。後同安師は、言下ごんか[4]において大悟する。

【機縁】
後同安師のいみなは観志。その行状はくわしく記録されていない。先の同安大師に参じて、得処とくしょ[5]は深し。先の同安大師がまさに示寂じじゃく[6]しようとする。先の同安大師は、上堂して曰く、「多子塔たしとう[7]の前では、宗子そうし[8]はひいでる。ろうほう[9]の前での事は若何いかんと」。[10]かくのごとく三度、する[11]に、いまだ答える者あらず。三度目の]末後に、後同安大師がでて曰く、「夜明やみょうれん[12]の外に、班[13]位にしたがって、官僚が排立する[14]。万里[15]は歌謠して、大平をどう(=唱導)する」。同安が曰く、「すべからく、これは、驢漢ろかん[16]にしてはじめて真の自己を得るべし。しかし[17]より、同安に住し、後同安と号す。

ヴァイシャーリーの多姿塔(左)とアショカ王塔(右)



【提唱】
 それ、多子塔の前では宗子は秀というのは、むかし釈迦牟尼仏が摩訶迦葉に相見しょうけん[18]せしことが多子塔前であった。一度ひとたび相見せしに、釈迦は迦葉尊者に衣法ともにでんす。その後、迦葉尊者は十二頭陀[19]を行じ、後に半座はんざ[20]にきょす。涅槃会ねはんえ[21]の上では迦葉は涅槃会に臨まずといへども、一衆[22]をもって、ことごく釈迦は迦葉に伝法を付嘱ふぞくす[23]。すなはちこの意なり、「宗子は秀いでる」というのは。いま同安大師は、洞山の嫡孫として、青原一家[24]の家風を、このところに逆流ほんかい[25]す。示滅じめつ[26]のきざみ[27]に、その嫡子ちゃくし[28]をあらはさんとして、五老峯の前の事、若何いかんと。かくのごとく三たび挙するに、衆はことごとく不会ふえ。ゆへに衆みな答えず。
 瑩山禅師はその答えとして「しゅ[29]山は、突兀とっこつ[30]として、他の衆山の頂きよりもひいでて、日輪は杲杲こうこうとして群象ぐんしょう[31]の前に照す」と。山は秀いで、日輪は照らすからそれゆえに、夜明簾の外に班が排立する。実にものの比倫すべきなし。脱体だったい[32]、無依むえ[33]なるゆえに、直下に第二人なし。ゆえに万里のいかなる場所においてもせんあい[34]を絶し、ほうしん猛将[35]はいまいづくにかある。脱体すれば歌い、歌って、みな大平[36]なり。衲子のっす[37]なり。参学修行は、この田地でんちにいたりて、はじめてその人たることを得べし。
 かくのごとく後同安大師は拔群の操行そうぎょう超邁ちょうまい得処とくしょ[38]、他の修行僧に先立ちて、その風操ふうそう[39]をあらはす。ゆへに後同安大師は前同安大師に尋ねて曰く、「世人が愛する処を、我は愛せず。いぶかし[40]、いかなるかこれ、同安和尚が愛する処」と。いはゆる世人の愛する処というは、自ら愛し他を愛す。この愛は漸漸ぜんぜん[41]にちょうず[42]。すなわち依報[43]を愛し、正報[44]を愛す。この愛いよいよ執着し、もちきたり、一重のてつかせの上に一重の鉄枷をそえて、すなわち迷妄の念を抱いて仏を愛し、諸祖を愛す。
 かくのごとく、愛染あいぜん[45]はいよいよ汚れもてきたる。ついに衆生いけるもの[46]の業因ごういん[47]は、連綿として断ぜす。元来、不自由のところより生じ、不自由のところに向かって死し、持ち去る。ただこれ、この愛染にれり。ゆえに、生仏[48]・男女・有情非情といった我ありから生じる二元対立の区別は[49]、かくのごとくなる相著そうじゃく[50]の愛なり。はやく、すべからく、払却ふつきゃくすべし。
 ところが払却できたとしても、一個の虚空という悟りの世界に執着して、すべては軌則きそく[51]なく、一物なく、これ何なるとも弁ぜす[52]。すべて不知ふち[53]不識ふしきなると説明する。これはこれ、非相ひそう[54]の愛する処なり。すなわち、非相への愛着にとどまることなかれ。
 なお、有相うそう執著しゅうじゃく一度ひとたび発心せば、自ら体達たいたつ[55]することもありなん。もし非相の所見を執着して、無色界[56]に堕在だざいしなば、恨むらくは、いくばくの劫数こうしゅう[57]を送りて、天寿をつきんとき、かへりて[58]無間地獄に堕ちなん。いわゆるこれ、無心の相しか見ない滅想[59]なり。この有相うそうおよび無相をかさねて、これ世人が愛する処なり。有相中にして、己を見、他を見、無相中にして己を亡じ、他を亡ず。ことごとくこれ邪なり。
 しかれば諸禅徳、初機しょき[60]、後学こうがく[61]よ、かたじけなくも釈尊の児孫じそん[62]としてぶつ受用じゅよう[63]を受用[64]す。あに、世人の愛する処に同じくすべけんや。まずすべからく、一切の是非、善悪、男女差別の妄見を解脱すべし。次に無為、無事、無相、寂滅のところにとどまることなかれ。
 このところに承当じょうとう[65]せんと思はば、自己の本質以外の他に向いて求めることをすべきではなく、自分以外の誰かという外に向いて尋ねることなかれ。まさにこの身、いまだ受けず、この体、いまださざ[66]さりし以前[67]に向かって、したしくまなこを着くべし。かならず千差万別という自他の二元対立は、毫髮ごうはっ[68]も萌す[69]ことあるべからず。
 無相に執着してあん昏昏こんこん[70]、黒山こくざん[71]鬼窟きくつ[72]のごとくなることなかれ。この心、本来、妙明にして赫赫かくかく[73]ぜんとして暗からず。この心、空豁くうかつ[74]として円照[75]す。この悟った心うちに、ついに皮肉ひにく骨髄こつずいを帯びきたること、いちごうもなし。いかにいわんや、悟った心に六根[76]、六境、[77]迷悟、ぜんじょうといった感覚・思考、悟りと未見性、煩悩の汚れに染まる染まらないといったことがあらんや。
 仏は、汝がために、説くことなくといえるのは、仏典を読んだところで、仏が体験した悟りの世界のことは分からず、自ら悟る必要があるからだし、自ら師のために参ずるなしといえるのは、師から教えてもらえることではなく、自ら悟らなくてはならないからだ。悟ると、桜花の花弁を見て「きれいだ」と声を発すると、花弁の色と自分の声とは、ただ声色しょうしきの分かれきたるなきのみにあらず。同様に、悟ると、耳なくして聴き、目なくして見えるので、すなわち、耳目のしきたるなし。
 しかれども悟ると、月を見れば、心=月であって、心月は輝いて円明なり。同様に、悟ると、華を見れば、眼=華であって、眼華がんかほころびて、紋はあざやかなり。子細に悟りの世界に精到[78]して、すべからく恁麼に相応しすべし。
 諸禅徳よ、いかんが這箇しゃこの道理を会することを得ん。すなわち、代わって、一語を付けん。早く、すべからく体前にほうを[79]附べし。

心月も、眼華も、その光もその色も、好ましい[80]
劫外こうがい[81]に放開[82]し、誰あってか翫賞がんしょう[83]する。



[1] 世人:世間の人。 [2] いぶかし:(他人にものを尋ねる時に)いったい、そもそも [3] 恁麼:本来の面目、本当の自分 [4] 言下:言いおわった直後 [5] 得処:悟ること [6] 示寂:高僧などが死ぬこと [7] 多子塔前(たしとうぜん):ヴァイシャーリー(仏教八大聖地の一つで、仏陀はここで自身の死を予告した)の西にある塔、その塔の前。 [8] 宗子:本家を継ぐべき子。ここではブッダの後を継いだ摩訶迦葉尊者のこと [9] 五老峯:廬山の東南の峰で、この5つの峰のひとつ、崇山で中国の禅の初祖である達磨大師が修行し、少林寺を建立した。達磨を師として修行した慧可は、心の不安の解決を目指し、長年の修行により証悟し、達磨を後を継いで第二祖となった。

[10] 「多子塔…若何と」:ブッダから迦葉に何が伝わったのか、また達磨は慧可の心を安心させたというがその中身は何なのか。 [11] 挙す:尋ねる [12] 夜明簾:皇帝の玉座の前に上部から垂れ下がり、皇帝の姿を隠すためのすだれ。 [13] 班:班位のことで、身分 [14] 排立:きちんと並ぶ。ここでは死に向かう前同安大師の姿をさえぎる簾の前に、僧がその位に応じて整然と居並ぶ姿を描写している [15] 万里:非常に遠い距離の範囲 [16] 驢漢(ろかん):ぼんやりとしている者 [17] 爾し:そのように。さように。 [18] 相見:対面すること [19] 十二頭陀:仏道修行のために定められた生活規律で、十二ある。人里はなれた静かな場所に住むとか、常に乞食を行うとか、三衣以外はもたないといったもの [20] 半座:首座のこと。釈尊が摩訶迦葉に半座をゆずった故事により、衆中の第一座である首座をこう呼ぶ [21] 涅槃会:陰暦215日に釈迦が入滅したときの集まり [22] 一衆:数多くの弟子や帰依者たち [23] 付嘱:たのみまかせること [24] 青原一家:青原行思(せいげんぎょうし)[671?-738740]禅師から、石頭希遷→薬山惟儼(やくさんいげん)→雲巌曇晟(うんがんどんじょう)→洞山良价(とうざんりょうかい)→雲居弘覚(うんごこうがく)と続いている。 [25] 逆流翻(ほん)回(かい):源まで遡るほどの勢いの強さ [26] 示滅(じめつ):高僧が死ぬこと [27] きざみ:時、時節 [28] 嫡子:正統な跡継ぎ [29] 須弥:仏教宇宙論における世界中心的な巨山。「須弥の高きを知しらば大海の深きを思え」(諺) [30] 突兀:高く突き出ているさま [31] 群象:もろもろの物の姿。 [32] 脱体:身も心も一切の束縛から離脱すること。悟りの境地にいたること [33] 無依:何物にもたよらず、何物にも執着しないこと [34] 繊埃:わずかなこと。ほんのすこし。万里を進むこともなんでもないという意味 [35] 謀(ほう)臣(しん)猛将:悟りに至るための修行を助けてくれた師や先輩 [36] 大平:しあわせであること [37] 奇(き)衲子(のっす):稀なる僧。このような深い悟りの境地に至る稀な人 [38] 得処:自己の身に修得したもの [39] 風操:生活態度がけだかく信念を曲げないことだが、ここでは深い悟りの境地あること

[40] いぶかし:(他人にものを尋ねる時に)いったい、そもそも [41] 漸漸:だんだん。しだいに [42] 長ず:傾向が進む [43] 依報:過去の行為(業=ごう)の報いとして受ける、身の依りどころとしての国土、家屋、衣食などの環境。 [44] 正報:過去に行なった善悪の行為の報いとして衆生が直接受けたもので、身体のこと [45] 愛染:物事に愛着して、その執着に迷うこと [46] 衆生:迷いの世界にあるあらゆる生類。仏の救済の対象となるもの。古くは「いけるもの」とよんだ [47] 業因:苦楽の果報を招く因となる善悪の行為。 [48] 生仏:衆生と仏。 [49] 非情:こころのないもの。精神のない自然界の草木土石など

[50] 相著(そうじゃく):=有相著我(うそうじゃくが)。仏や浄土は感覚されないもの(無相)であるのに、感覚されるものと思って、我れ有り、と執着すること [51] 軌則(きそく):法則 [52] 弁ぜす:說明し言うことができない [53] 不知:精神で認知できること。 [54] 非相:一個の虚空という悟りの世界。生を受けて生まれるときの、生まれ方を総括し、類別した十二類生の11番目とは関係がない。 [55] 体達:真実を明らかにして深く通達すること。 [56] 無色界:三界の一つ。色身(肉身)を離れ、物質の束縛を離脱した心のはたらきだけからなる世界。色界より上位の世界で、空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処の四天から成る。この境界の禅定を四無色定という。無色天とも。 [57] 劫数:無限に長い時間の長さ、年数をいう [58] かへりて:たちまち [59] 滅想:まったく姿を現わさない

[60] 初機:はじめて仏の教えを信ずるようになった人 [61] 後学:後輩の修行者 [62] 児孫:仏や師の教えをつぐ者。 [63] 仏受用:悟りを開いて、その悟りを享受している仏。この段階で、みずからひとりその法楽にひたっている場合を自受用身、他にもその法楽を味わわせる場合を他受用身 [64] 受用:受け継いでいる [65] 承当:真実をそのまま受け取ること [66] 萌す:草木が芽を出す。ここでは母胎の中で体が生じること [67] 以前:父母未生以前の本来の面目 [68] 毫髪:細い毛のことで、比喩として、極めてわずかなこと [69] 萌す:生じる

[70] 昏昏:暗くて物の区別がつかないさま [71] 黒山:暗黒 [72] 鬼窟:物事の道理に暗いこと [73] 赫赫: 赤赤と照り輝くさま [74] 空豁:ひろびろとひらけているさま [75] 円照:完全に照らしだされること。心がくまなく完全に晴れわたること [76] 六根:六識がその対象を認識するとき、はたらきの拠り所となる六つの認識器官をいう。眼・耳に・鼻・舌・身・意の六つ [77] 六境:六識が六根を介して認識する六つの対象。色境(色・形)・声境(言語・音声)・香境(香り)・味境(あじ)・触境(堅さ・湿りけ・温かさなど)・法境(意識の対象となるもの一切、または、上の五境を除いた残り)をいう [78] 精到:詳しくて、よく行き届かせる [79] 眸:瞳孔(どうこう)のこと。また、目

[80]好ましい:美しい [81]劫外:成・住・壊・空の四劫の外にあるということ。世界の生成・変化・消滅にわずらわされない超然とした境地。 [82]放開:大きく開けていること [83]翫賞:美的な対象を、深く味わう。ここでは、味わっている私とその美的な対象とが一つであるということ。

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