精読『完本チャンバラ時代劇講座』第三講その二
講談は別名"講釈"とも言い、これは本を読んで、その意味内容を分かりやすく説明することである。講釈師のことを"太平記読み"と言ったくらいなので、『太平記』が読まれていたのである。それだけではワンパターンだったので、『源平盛衰記』や『曾我物語』『太閤記』といった軍記文学が読まれ"軍談読み""軍記読み"とも呼ばれるようになって、"教養"が開かれるようになっていった。講談師はそういうものに詳しく、話術を持っていることから、武士に重用される。武士のための軍学セミナーのようなものが、講談師を講師として開かれたりするのである。こうして武家屋敷に出入りするようになった講談師たちに、武家の記録が伝わっていき、それが講釈のレパートリーに加わり、"御記録読"という言葉も出てくる。史実が講談師によって歴史物語として語られていくという流れがこうして生まれたのである。
一方、講談師を生んだ『太平記』とは別の物語もある。それが『平家物語』である。『平家物語』は音楽を生んだのである。
『太平記』が生んだ講談は、張扇一本でリズムをとる純然たる話芸であるのに対し、『平家物語』は琵琶という楽器がメロディを奏で、それに乗って語られていく"音楽"であった。
この音曲的芸能から人形浄瑠璃·歌舞伎が生まれたのである。これらが平気で荒唐無稽になりえたのは、その根本に音楽という非理性的なものがあったからである。
『太平記』→講談には"音楽"という不純物がない。そのため講談の登場人物にも"不純物"はないのである。"不純物のない人間"とは一言で言えば"立派な人間"である。歴史上の人物=立派な人、という公式も生まれる。
講談の登場人物は、面白く語るために、心理を持たず、苦労を苦労とも思わない超人的克己心を持った人物として描かれる。そういう講談に接しそれを面白がった人たちは、立派な人とはそういうもんだと思い込んでしまった。近代における日本人の悲劇はここにある。無謀こそ美徳という一般常識の出来上がりである。
日本は太平洋戦争という無謀な戦争に負けた。その事が重要な変化をもたらす。講談の指し示す理想像とは、究極のところ"立派な父親"である。しかしその"父親"というものが、敗戦を機に無能だったことが暴かれ、いなくなってしまったのである。
立派な人達がいて、立派にドラマを演じているからこそ、格調が高かったのである。しかしこの"格調高い"が無意味な言葉に変わり、表面だけの実質がないものとなったのである。
その後の日本は、立派な人間とは結びつかない"もっともらしい"="本物志向"という"教養"の時代になっていく。
この契機となるドラマはなんであったかといえば、それが昭和39年放映の、忠臣蔵の決定版ともいえるNHK大河ドラマ『赤穂浪士』なのである。このドラマを最後に時代劇らしい時代劇は影を潜める。翌年のNHK 大河ドラマ『太閤記』第一回の冒頭でいきなり新幹線が登場するというドキュメンタリータッチの時代劇らしからぬ時代劇が大衆に許され、大河ドラマはただの"もっともらしい""歴史ドラマ"に変わったのである。そこには、人間社会に関する重大な学習をしでかしてしまえるような江戸以来の伝統的"ドラマ"はないのである。
では改めて大河ドラマ『赤穂浪士』ができるまでの流れについてである。
このドラマは、昭和2年に新聞で連載が始まった大佛次郎の小説『赤穂浪士』を原作としている。これ以前明治の忠臣蔵は、『仮名手本忠臣蔵』をもとにして作られた歌舞伎の『実録忠臣蔵』と、『実録忠臣蔵』には出てこない義士のエピソード集であるような講談の『義士銘々伝』の二つに分かれていた。
江戸の『仮名手本忠臣蔵』から明治大正を経て、日本人は、忠臣蔵のエッセンス、本質を既に知ってしまっていた。知られ過ぎてしまっていたために、「忠臣蔵は国民ドラマだ」という声だけはあって、でも決定稿を持っていないという不思議な状態になっていた。そんななかで昭和初年に連載された大佛次郎の『赤穂浪士』は、赤穂四十七士の具体的なエピソードまで織り込まれて書かれた最初と言ってもいいような忠臣蔵の決定版小説だったのである。
大佛次郎は、この忠臣蔵小説中に、昭和初年当時の時代状況を反映させてか、忠臣義士から距離を置こうとする青年を登場させている。それは当時の、右傾化から逃げようとする青年、右傾化を推進しようとする青年、左翼運動を推進しようとする青年、左翼運動についていけない人間、と、誰からも読まれる左右を超えた不思議な小説として存在させることとなる。
江戸時代から持ち越された忠臣蔵なるドラマは、昭和初年において既に、青年の挫折感を接着剤として使うことで、現代社会に位置付けられる、そういう物語となっていたのである。
こういう青年が出てくるということは、「忠臣蔵は国民ドラマだ!」というファナチックなのめりこみに水をさすのと同時に、忠臣蔵全体像を俯瞰する視点をやっと確保することが出来るようになったということを示してもいるのである。
こうして、芝居でもなく講談でもなく、小説によって近代の忠臣蔵の骨格は作られていき、この小説を原作とする映画が多く生まれ、昭和39年の決定版へと至る。
三講のテーマである"格調の高さ"について、原作の小説と、ドラマ版での差を一つの例を出し橋本治は解説している。
それは、有名な大高源吾の話の扱われ方である。それには、講談と似ているが対照的な浪曲が関わってくる。
以下その三へ
この話からさらには"格調の高さ"の本質が『勧進帳』を例に語られていく。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?