精読『完本チャンバラ時代劇講座』終講

全盛期の東映チャンバラ映画は"みんなおんなじ"だったが、それは、どんなものでも手を変え品を変えて結局みんなおんなじものにしてしまうという、非常に手のこんだ"みんなおんなじ"だった。
その一端を担っていたのが沢島忠監督である。この人の魅力を一言で言えば、みんなが走ることである。色んな人間の集団が、色んな方向から大クライマックスへ向けて走るのである。
色んなものが喚声を上げて走ってくる。その走ってくる為に、色んなものがキチンと"色んなもの"として描き分けられている。一緒くたにするために、ゴッタ煮の材料は豊富に用意されなければいけない、という訳である。そして材料がゴッタである以上、それを煮る"鍋"は一つでいいのである。"正義は勝つ"それだけ。その"鍋"に向かってみんな走りこみ、それで"正義は勝つ!"。みんな正義だから、みんな走り寄って、みんな晴れやかに笑う。だからみんなおんなじなのである。
みんな明るく笑って手を振っていた。みんな喚声を上げて元気に突っ走っていた。
みんな料簡が若かったから、こういう大切なことが分かれなかったのである。
"大切なこと"とは、"娯楽に理屈はいらない"ということである。理屈抜きで歴史という蓄積だけがあったのが、日本の表沙汰にならないもう一つの"近代"である。(表沙汰になった近代とはだから、"理屈だけあった"ということである。)
"歴史"とは、沢島忠の先例としてのマキノ雅弘監督である。この人の昭和十三、四年の作品に、東映ゴッタ煮時代劇の原型が全部揃っている。同時代には、"江戸っ子"と"浪花節"のゴッタ煮である広沢虎造もいれば、その浪花節をジャズ、ブルースと合体させてゴッタ煮にするあきれたぼういずの川田晴久もいた。川田晴久は"美空ひばりの育ての親"であるのでそれはそのまま『ひばり·チエミの弥次喜多道中』を撮った沢島時代劇へとつづくのである。
しかし、昭和四十年代になって、チャンバラ映画はあまりに早く終わってしまった。その理由を橋本治は、チャンバラ映画の作り手達が「リアルであれ!」と願って作り出した"夢"が、みんな"通俗娯楽"という屑籠の中にほうりこまれて、自分達が"夢の世界"の中に閉じ込められてしまったからだ、と言う。そしてしかし、あのみんなが走っていく"明るい世界"が、本当に所詮は夢だったのか、今いるこの世界がただの悪夢かもしれないではないか、とも言う。
そして最後に、"バンツマ"がどうなったのかを語る。
阪東妻三郎は、サイレン卜からトーキーに移り変わるタイミングで、一度落ち込む。しかし昭和十六年の『江戸最後の日』から完全に変わる。この人は、映画の中でその役になって生きている。この人が笑い、泣く、怒る。どれもが自然で、どれもが(ある意味で)嘘臭い。阪東妻三郎の演技には、嘘とホン卜の区別のつけようがないのである。
とんでもない自然な動きを見せる大名優が最後まで"スター"だった。その魅力を橋本治は"笑顔"だとする。あんなに美しくあんなに優しい笑顔はまずない。それは平気で他人を包み込んでしまう"慈悲の笑顔"である。そういうものを平気で出せる境地までバンツマは行ったのである。人間というものは、実は普段平気で、そういう笑顔を見せてしまうものなのだ。だから、そんな笑いを平気で笑える、とんでもない境地にいる人のその"笑い顔"はとてもリアルなのである、と。
いくら落ち込んだって、まだその先はあるのだ。

最後に橋本治の文章で、私が1,2を争うほど好きな文章であるこの本のあとがきの一節を紹介して終わりとする。
「俺、はっきり言って"優等生"なんて嫌いだね。あいつらにはルールの案出能力がないんだもん。チャンバラごっこをやったことのない、そしてチャンバラごっこの必要性を身にしみて分かってない男と女が、絶対にこの日本をダメにしたんだと思うもんね。お家乗っ取りの悪家老と淫婦の悪巧みなんて、俺、絶対に許せないもんね。"知性が悪である"っていうよりも、ロクでもない人間の知性はロクでもないものにしかなんないというのが、日本の正義の考え方だもんね。(中略)正義を冗談にして平気でいられる人間見ると「ウゾウ、ムゾウの蛆虫めら!」とか、本気で思っちゃう。「正義は人を裁くからいやだ」っていうのは戦後の軟弱な考えだけど、"人を裁く正義"なんていうのは二流の正義だ。ホントの正義は人を自由にする。笑顔のない正義は嘘だし、正義のない笑顔はいやだ。正義がなければ笑顔は立たない-----もうこれだけ。」




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