精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その四

大正十四年の『雄呂血』は、阪東妻三郎の個人プロダクションによって製作された。既にこの当時彼にはそれだけの人気があったということであるが、それを可能にする保護者がいた。それが、初めてチャンバラ映画を作った"日本映画の父"牧野省三である。
牧野省三は、日本で最初にチャンバラ映画を作った人だが、それは牧野省三が自発的にやったことではなく、映画撮影用の機械と資金を渡して、映画の撮影を頼んだ人物がいた。それが横田永之助という興行師だった。
牧野省三も、京都の千本座という芝居小屋の息子で同じ興行師であるのだが、彼は自分の芝居小屋の演し物を考え、演出もするという興行師だった。
言わばこの二人の関係は、横田が金主即ち資本家で、牧野がプロデューサー兼監督であった。この二人が横田商会という小さな映画会社で映画を撮っていた。
明治の終わりにはこうした小さな映画会社がいくつかあって、大正元年に、横田商会を含む四つの会社が合同して日本活動写真会社(略して"日活")を作る。
この日活は、東京と京都に撮影所があり、東京では現代物、京都では時代物を撮っていた。牧野省三はもちろん京都で尾上松之助のチャンバラ映画を撮り続けていた。そしてここで初めて資本家と"製作者"の対立が起こる。
資本家横田永之助は、儲かっている松之助映画を作りたい、その一方監督として作品創造に関わる牧野省三は、新しいものを作りたいと考えるようになる。新しい映画を作るために独立するが、資本主義黎明期の"親分子分"のような関係のなかすんなり独立できるわけはなく、色々あって、大正十二年にマキノキネマという新しいチャンバラ映画の製作会社を作り、そこから新しいスターも生まれてくる。阪東妻三郎、月形龍之介、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎、など後のチャンバラ映画スターはみんなこの"マキノ"からである。
製作側が会社から独立することで新しいチャンバラ映画が生まれるという最初のパターンである。自由こそ素晴らしいという青年の自立であるが、一方で、青年の存在基盤の不安定というのも生まれる。日活は会社組織であるが、製作優先のマキノキネマは言わば"個人"である。個人と会社の勝負になったとき、分は会社のほうにある。個人が苦労して作り出したものも、それが流行って風潮として定着してしまえば、算盤勘定で新しいものを拒んでいた会社という体制も、容易にそれを取り込んでしまう。そしてそれによって、"個人"特有のオリジナリティーは、いとも簡単に"月並"を作ってしまうのである。
マキノ映画は大当りするが、よその映画会社もそういう映画を作る。手っ取り早い類似品を作るんだったら盗めばいいということになって、スターの引き抜きが盛んになる。マキノ映画で抜擢されて、それまでは日活の大部屋役者だったのが一躍大スターになった阪東妻三郎は、すぐに帝国キネマという映画会社に移籍、そしてそのゴタゴタから独立ということになって阪東妻三郎プロダクションの設立ということになる。
そこで作られた『雄呂血』が大ヒットしたということは、結局チャンバラ映画とはチャンバラであり、チャンバラのためにはチャンバラスターが必要である、というチャンバラの絶対化であった。
チャンバラという売り物があれば個人は生きていけるという、豊かさの中の"自由"である。これによりスタープロは続々と生まれる。
このころのチャンバラ映画は、スターによるアクション映画のようなもので、"チャンバラこそが内容"というものだった。当時、青年達はただガムシャラに動きたかったのである、だからこそスピードのある立回りに熱狂したのだ、と橋本治は言う。
こうしたチャンバラ映画の出発点でもある『雄呂血』が高く評価されたのは、当時のそういった純真な青年達の魂に衝撃を与えたからである。このあたりのことを実作者の側であるマキノ雅弘(牧野省三の息子)は、次のように言っている。
「ようはチャンバラ、殺陣の魅力です。ただがむしゃらに、若さだけをたたきつけて撮ったシャシンです」
このことこそがまず重要で、橋本治は、これが沢田正二郎言うところの"半歩"であると言う。さらにそれを沢田正二郎の"半歩"と質の上で比べた場合、"四分の一歩"だと言う。
沢田正二郎は、"自分の演劇"をやりたくて新国劇を作った。結果的には立回りが人気を呼んで"剣劇"が看板とはなったが、新国劇は剣劇以外にも色々やった。沢田正二郎にとっては、自分の劇団が色んな芝居をやれるということが"思う存分に動き回れる"ということだった。それがまだ理想には届いていないということでの"半歩"だった。沢田正二郎には、まずドラマがあって、その中にチャンバラもあっての"半歩"だが、チャンバラ映画はその逆なのである。チャンバラがあってまだドラマがないのである。沢田正二郎の"半歩"にはまだ届かないその半分の"四分の一歩"。橋本治はそのように言う。
そしてこのただのチャンバラはやがて飽きられる。
昭和四年の牧野省三死後マキノキネマは、会社を代表する未亡人と、製作側の監督を代表する息子のマキノ雅弘との間で労働争議が起こる。そうこうしている内にマキノ映画の撮影所が火事で焼失、借金を抱えたマキノ雅弘は日活へ入社。そしてこの日活へ阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵といったスター達が、スタープロをたたんだ後、色々の遍歴を繰り返しやって来る。
明治末から昭和十年頃までの間に、横田+牧野→日活→マキノ独立→スター独立→マキノ日活復帰→スター日活復帰、という順で再び元の日活に返ってくるのである。
ちょうどこの頃の日本映画は"男のチャンバラ"対"女優の松竹"という構図になっていた。そして女優の松竹が、林長二郎(長谷川一夫)という女性対象のチャンバラ映画スターを総力を挙げて押し出してきた。
『雄呂血』から始まるアクション映画であるようなチャンバラ映画は、この林長二郎ファンの女の子達から「暗い」と言って斥けられるようなそんな時代となる。と同時に折しも時代はサイレンとからトーキーへと進んでいく。そしてこの頃の阪東妻三郎こそがサイレントチャンバラの限界を語っている。
"剣戟王"の称号を奉られるまでになっていた阪東妻三郎はかなりの悪声だった。興奮して喋ればキンキン声になり、それを押し殺すと一本調子の重々しさが耳立つ。あまりにも自然に体ばかりが動きすぎた、そのツケがトーキーになって回ってきたのである。若さにまかせての"ガムシャラ"は、言葉を放棄することによって可能だったのであろう、と橋本治は言う。
では、"四分の一歩"を刻んでいたチャンバラ映画は、もう四分の一歩を進めて正しく"半歩"をどのように刻むのか。それを体現したのがマキノ雅弘である。
昭和三年『浪人街·第一話 美しき獲物』でマキノ監督はキネマ旬報ベストテン第一位を獲得、当時監督は若冠二十歳。翌昭和四年も『首の座』で同じく一位。このマキノ監督は、その後しばらくすると全く"ベストテン"という芸術的評価とは無縁の監督となる。
マキノ雅弘は、ただ若さでガムシャラに殺陣の魅力だけで撮った自分の映画に対し「それだけじゃいやだ、もっと面白い映画も作りたい」と思ったのであろう、と橋本治は推測する。
『仮名手本忠臣蔵』大星由良助のセリフを借りるならば、マキノ雅弘は若さだけの自分自身に対し「まだ御料簡が、若い、若い」と言えた人だったのである。
彼は"なんでもこなす職人監督"となる。そしてチャンバラ映画は本格的な通俗娯楽映画時代の到来となったのである。

その五へつづく





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