橋本治の初期雑文を読む1

とりわけおもしろいと思うものをいくつかピックアップ
まずは『よくない文章ドク本』より
「顔の長い文学史」
戦前の江戸前の日本文化は顔が長いことを正統とした。
九代目団十郎、五代目菊五郎、十五代目羽左衛門、初代吉右衛門などなど。六代目菊五郎は丸顔だった。正統から外れた顔を持ったがゆえに自分の顔にあった様式を持たなければならなかった。それが彼のリアリズムだった。
顔の長い歌舞伎役者は、ひたすら修行をすれば、正統の歌舞伎役者になれる。顔の長くない歌舞伎役者は、オーソドックスな修行をした上に、更に自分の顔に合った芸風を新たに考え出して正統に繋げる、これが近代的なオーソドキシィである。
では小説は··
三島由紀夫、泉鏡花は顔が長かった。したがって本流。久生十蘭、大坪砂男、夢野久作も長かった。彼らも本流。本流とは普通であるということで異端ではない。谷崎潤一郎は丸かった。だから自分を異端だと思った。そして異端じゃなくなろうとして文体の研究をし、一生懸命様式を獲得していった。
星新一は長くない、だから彼はショートショートのスタイリスト。筒井康隆も長くない。だからホントの前衛。山田風太郎は歴然と四角い。だから奇想と言われる小説を書いてその実一番オーソドックスな小説家になった。吉川英治は国民作家にして四角い顔である。だからこの人の作品はイマイチな筈なのである。顔の長くない人間は、絶対意識して変わったことをやって、"国民作家"などというレッテルを貼られてはいけない筈だから。
正統とは、様式を持っているもの、様式に支配されているもの。支配されていると同時に、その支配する様式を逆手にとってその様式をブチ壊すだけの自由さを持つもの。その自由さが様式にあてはまっているものである。
都筑道夫は、自分の顔を、年とともに長くなってきているがまだ江戸前の長さには足りていない、と言っていた。そんな彼は、いつも変わったことをやって、その作り方の説明をキチンとしてくれて、いつもまともな小説を作っていた人である。

同じく『よくない文章ドク本』より「春色百千鳥」
"文学"という新しい概念が導入された時、過去の文学から公の枠組は取り除かれた。"文学"という概念が導入された時、公であった文学は決定的に私となったのだ。しかし"文学は私である"という概念もまた、西洋から伝えられたものである。私性を創造することに怠惰だった私達の先祖達は、"私性とは創造さるべきものである"という認識に対しても怠惰だった。
一方マンガは文学ではない。自らの独創によって生まれた"表意文字"-"絵"によって綴られるものだから。表したい、伝えたいという作者の意志欲望と、如何に伝えるかという作者の技倆のみが必要で、文学のように、作品を介在させて作者と読者がその教養を合致させあうという手続きは、マンガには不要である。
だからマンガは、分かろうとする意思を持ったものにはすべてが原則理解可能であり、分かろうとするのではなく、解釈しようとするものに対しては一切が不可能なのである。
以上のことを明らかにしたのは大島弓子であった。
大島弓子の読者はすべて少女だった。少女であることによってしか大島弓子の作品は理解しえなかった。それは大島弓子が"少女としての作家""少女である作家"だったからである。
"少女"であることの"概念規定"は"文学"の中でなされて来た。その文学は、当然のことながら少女を排除するものだった。少女は、"少女"という言葉を与えられたのみで、一度たりとも自身が少女でありえたことはなかった。だから大島弓子は、自身に与えられた"少女"という言葉を逆手に取った。自らの独創と技術的習練によって作家となり、"少女"の概念規定を完璧にやった。世界が曖昧なまま放棄していた概念規定を、放棄されていた側が完璧に成し遂げたのである。
いまや世界と少女の力関係は逆転した。いつでも世界から放り出される危機的状態にあった少女が、いつでも世界を放り出しうるようになった。だから、少女·山口百恵はいともあっさり引退してのけた。表現は肉体を持ったのだった。

つづいても『よくない文章ドク本』より「いわゆる"若者文化"とマンガ」から。
マンガというものは、本来的に"読む"ものではなく"見る"ものである。見るということの平易さ、見たい、知りたいという大衆の基本的欲望によって、マンガはかつての大衆文学の位置を獲得し、軽く凌いだ。マンガを"見たい"多くの若者達は、"見たい"という一点によって、"子ども達"と呼ばれる方がふさわしいほど、正当に稚いだけなのである。
稚い彼らは、現実では稚いものとしては扱われず、若い者として扱われる。その状況が彼らに対し、現状肯定を望みながらもそれを否定する、という不安定な状態を産み出す。その不安感を満たすものが唯一マンガだった。だから彼らは"見る"ことからより能動的に一歩を踏み出し、"読む"ようになる。マンガには、より一歩を踏み出したいと若者に思わせる何かがあったのである。それはマンガ作者達の内的欲求である。マンガ作者達もまた、自己の表現手段としてマンガを選ぶ時点において、自らの稚さを肯定した。それによりマンガ表現の幸運な現在があった。この現在を切り拓いた作家に、少女から普遍を描いた大島弓子、少女に至るための少年、そして少年に於ける現在を描いた萩尾望都、少女から女へ、そして女からそれを成り立たせる社会、及びそこに生きる少年像を描いた山岸凉子の三人がいる。この三人の仕事によって、少年と少女と社会は正当に位置づけられた。それは稚い彼女等にとっての生きることであり、稚い読者にとっての生きることでもあった。

さらに『よくない文章ドク本』より「青空」
パンタは、パンクであり、ロックであり、過激であり、青春であり、少年でありえたパンタは、「Pantax's World」によって、初めて普通でまともな"人間"になった。それは、完成を目指した未完成な人間が、その自分の未完成な状態に自分で終止符を打つことが出来た稀有な例である。この世の中に、普通でまともな人間なんていうものは誰一人としていやしなかったのである。
自分の目の前に世界が広がっているというのは決して完成された人間ではない。でもそれは未完成な人間ではもうないのである。どんな人間かといえば、それがまともで普通な人間なのである。
僕はパンタが一番好きだ、その普通さとまともさに於いて。そして、僕が"普通でまともだ"と思える人間は、まだパンタ以外に一人もいない。

つづく

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