橋本治と川田晴久 その一

『完本チャンバラ時代劇講座』の第四講に進む前に、第三講のキーワードでもあった"本物志向"について、橋本治による面白い文章があるのでそちらを紹介します。
その文章のタイトルは「日本式ザッツ·エンタテインメント」。
これは2003年に中央公論新社から出た『川田晴久と美空ひばり』という本に掲載されている。
この文章で橋本治は、川田晴久という謎を追うことで日本の日本的ショービジネスについて語っていく。
橋本治は九歳だった1957年に川田晴久の死亡記事を見たことだけは覚えていて、それは「自分の知っている人の名前を死亡欄で見る」最初のことだったという。
そんな橋本治が川田晴久と再開するのが25歳の頃1973年。この年、『珍カルメン/オリジナルあきれたぼういず』というLPが発売された。あきれたぼういずは戦前に川田晴久が参加していたグループで、「寄席のボーイズ物の元祖」的存在であった。
橋本治にとってこの「ボーイズ物」はあまり面白いものではなかったらしく、それは浪曲を前面に押し出した泥臭いものだったからのようである。しかしあきれたぼういずは活動当時「モダンなグループ」だった、ということを聞いて、「ボーイズ物」が「モダン」とはほど遠いものだと思っていたので、半信半疑で買って聴いてみたらしい。聴いて驚き狂喜したそうである。「これこそが自分の求めていた音楽だ」と。このテのものは他にないのかと、レコード屋を漁って演芸コーナーで見つけたのが、1964年に発売された川田晴久メインの『地球の上に朝がくる』というレコードだった。橋本治はこれを聴いて満足する。と同時に川田晴久という謎に直面することとなる。
橋本治は、川田晴久を、戦前から川田晴久が生きた時代までで「日本で一番歌のうまい人」だと思った、というが、誰も川田晴久を「歌手」とは位置付けないのである。  
しかし川田晴久はまず第一に「歌手」である。だからこそ「美空ひばりの育ての親」という一般的に知られているポジションともなる。
だが川田晴久は「お笑いの人」でもあった。美空ひばりはそうではない。師弟関係である二人に「歌」という接点はありつつ、微妙にずれていることを、昔は誰も不思議には思わなかった。なぜなら川田晴久が「お笑いだけの人」ではないのと同時に、美空ひばりも「歌だけの人」ではなかったからである。
昭和三十年代の美空ひばりは「映画スター」だった。昭和四十年代になると活動の中心は舞台へ移る。芝居と歌の公演で大劇場を満杯にできるスターだった。そんな彼女は昭和四十年代に「艶歌(演歌)の女王」と一般的に呼ばれていたが、橋本治はそれを間違いだと言う。歌手という点では、演歌を包括する「歌謡界の女王」であり、それだけではない「ショービジネスの女王」なのである。
川田晴久はその美空ひばりの「育ての親」なのである。川田晴久は、日本的なショービジネスの中にいて美空ひばりはその系譜の中から出てきたのだが、誰も美空ひばりをそのように見ていない。だから川田晴久のポジションが見えにくくなっているのだ、と橋本治は言う。

川田晴久が日本のショービジネスまたは大衆文化のどこにいたかを明確にするため、橋本治は、マキノ雅裕、広沢虎造、三木鶏郎、そして笠置シヅ子を補助線として挙げている。
まずは「ブギーの女王」と呼ばれた笠置シヅ子である。
笠置シヅ子は、美空ひばりより二十三歳年長で、美空ひばり以前の最大のスターである。ジャズ歌手として売り出されるのは戦前で、戦中ジャズが禁止されると、喜劇女優の道へ進む。
戦後ジャズが解禁されると、1947年の『東京ブギウギ』の大ヒットでスーパースターになる。この時既に喜劇女優としての面も兼ね備えていた笠置シヅ子は、エノケン(榎本健一)とコンビを組んで、舞台狭しと暴れまくるエネルギッシュなコメディエンヌになったのであった。
笠置シヅ子の特徴は、突き進むスピード感にあると橋本治は言い、『東京ブギウギ』はまだ尋常で、1950年の『買物ブギ』が、関西弁で一気にまくし立てていく、その顕著なものと考えている。1950年はアメリカから帰ってきた美空ひばりと川田晴久が主演した映画『東京キッド』が撮影されていた年である。劇中で『悲しき口笛』や『東京キッド』を歌う美空ひばりとこの笠置シヅ子にはまだ距離がある。
しかしこの二年後、美空ひばりは『お祭りマンボ』を出す。その早口は笠置シヅ子を彷彿とさせるが、『お祭りマンボ』の特徴を、橋本治は、最後の哀愁漂うバラードの部分に見る。この泣き節は、笠置シヅ子にはないもので、『お祭りマンボ』は、コミカルでアップテンポな前半と切々たるバラードの後半の見事なまでの融合、異質なものを一つにしてしまう、という特徴を持ったものなのであった。橋本治はこの源流をあきれたぼういずに見る。
1938年に発売されたあきれたぼういずの最初のレコード作品『四人の突撃兵』は、戦場にいるという設定の四人のメンバーが、突然バカ騒ぎを始め、それがまた突然やるせないメロディーになり、最後せつないコーラスで終わる、という『お祭りマンボ』の根本にあるメンタリティと同じである、と橋本治は言う。異質なものをいくらでも取り込んで一つにしてしまえるのは、根本がしっかりしているからだと橋本治は考える。
『お祭りマンボ』が出た年に笠置シヅ子は『タンゴ物語』という曲を歌っている。タンゴと民謡という「異質なものの融合」ではあるのだが、これが「見事な融合」にはそう響かないと橋本治は言い、その理由は笠置シヅ子の歌がそういうものだからだと言う。
1955年笠置シヅ子は歌手を廃業するのだが、その年に『エッサッサ·マンボ』という曲を歌っている。安来節とマンボが一緒になったメチャクチャな発想で楽しい曲なのだが、誰がこういう発想をするかといえば、戦前から笠置シヅ子とコンビを組んでいた作曲家の服部良一である。つまり笠置シヅ子が歌う前に、作曲家の手の中で融合は完成されているのである。だから危なげなく、笠置シヅ子はのびのび楽しげに歌う。破綻する可能性が初めからない。「異質なものが美空ひばりに歌われることで一つになる」という、あきれたぼういず以来の「危うさ」を宿した『お祭りマンボ』との違いがそこにはある、と橋本治は考える。
あきれたぼういずも『お祭りマンボ』も、異質なものを、「歌い手がその場で一つにする」という危うさで成り立っているのだ。
終戦から笠置シヅ子の歌手廃業の1955年まで、「へんな歌」が多く登場した。その理由の一つはジャズが笑いを誘発したことと、そしてもう一つの理由に三木鶏郎の存在があると、橋本治は言う。
補助線の二つ目は三木鶏郎である。

その二へつづく



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