精読『完本チャンバラ時代劇講座』第二講その一

第二講は、通俗とはなにか、その定義付けである。
この回の主人公は、市川右太衛門主演『旗本退屈男』である。
橋本治は、市川右太衛門扮する早乙女主水之介をこそ、日本文化が生んだ通俗の極致とするのである。その理由は、彼が、サイレント、トーキー、カラー大型画面と一貫して存在し続け、ついにカラー大型画面の時代に大輪の花を咲かせた、時代を超えてしまうヒーローだったからである。
同様にサイレント、トーキー、カラー大型画面と三度作り直された『丹下左膳』と比べると、こちらは、サイレントのチャンバラ映画が一番すぐれていると言われてしまうようなものであり、ある時期のヒーローにすぎなかったということになるのである。
では、早乙女主水之介とはどのようなヒーローであったのか?
この人はヒーローの条件を全て備えているにもかかわらず、子供のチャンバラごっこにはあまり出てこない不思議なヒーローだった。子供の好きなヒーローというのは、子供が真似をしやすいだけの極端さを備えているものである。宮本武蔵の二刀流、佐々木小次郎の'物干し竿'刀、荒木又右衛門の手裏剣、鞍馬天狗の覆面···。
早乙女主水之介はといえば、派手な着流し姿という極めて目立つ外見ですが、子供には派手な着物を用意するのが難しい。額の三日月傷という特徴もあるものの、"特殊能力"がない極めてオーソドックスな存在であるのだ。いくら強くても、オーソドックスな存在は子供の世界ではあまり面白いものではない。
そう、早乙女主水之介は、大人のためのヒーローだったのである。
早乙女主水之介は、立ち回りの時に、毎度毎度「直参旗本·早乙女主水之介!」と名乗りを上げる。この"直参旗本"をわかりやすく会社で説明すれば"部長級"ということになる。この"部長級"がどの程度に偉いのかは、まだ社会生活のない子供にはわかりません。「直参旗本·早乙女主水之介!」というのは、大人社会でだけ成立する、肩書きつきの"名刺"なのである。
大人が、自分もその程度のエラサは持ちたいと、一体感が持てるような地位を示すものだったのである。
チャンバラ映画は"子供騙し"という言葉で語られるが、それは決して"子供向き"なのではなく、大人向きの、大人のための娯楽なのである。"娯楽"というものが狭く考えられたとき、そこに"子供"の二文字が与えられてしまっただけなのである。
子供は放っておけば遊んでいるものなので、本来"娯楽"は大人のために存在するものであるのだ。なぜ娯楽というものが存在するのかといえば、それが人間にとって必要なものであるからだ。
「娯楽とは下らないものだ」という、人間に関する偏狭な考え方があるが、こういう考えの人たちだって、うっかりなにかの拍子に楽しい気分を味わうものなのである。うっかり味わってしまったもんだから、困惑して、自分の中に残る子供の部分のなせるわざ、という位置付けにしてしまうのである。これが"子供騙し"と呼ばれる所以である。
しかし娯楽というものは本来、大人である今の自分が素直に楽しめるようなものなのである。
つまり娯楽が大人を対象にしたものであると考えるならば、大人というものは子供っぽさを平気で持っていて、それを平気でオープンにしてしまえるものであるとならなければ嘘なのである。
大人というものは、娯楽を楽しめるような受け入れ態勢をいつも持っていなければならない。キチンとしているだけではない、いつもいい加減でいられるような部分を持っていなければならない、それあってこそ初めて大人である、ということになるのである。
大人は、金持ちになりたいし、金を持ったら、豪勢な格好をしたいし、オーソドックスな存在でありたいし、「直参旗本!」と胸を張って名乗りを上げられるような地位と名誉がほしいし、なおかつ正義の人でありたいのである。
そういう人のためにこそ通俗はあって、そういう願望を肯定するものこそが通俗と呼ばれるようなものなのである。
いい加減さを全部認めた上でなおかつそれを正義にしてしまう、そういう存在が『旗本退屈男』の早乙女主水之介だったのである。
『旗本退屈男』が言うことは、派手な方がいい、賑やかな方がいい、ということである。使えるものは全部使って、平気でそれで調和を取っている、生きている"日本"的の塊り、それが『旗本退屈男』だったのである。"日本"的とは、ゴッタ煮こそすべて、雑然こそ唯一と言っている、そうしたエネルギーの持ち方のことである。日本とは本当はそういう国なのである。
早乙女主水之介は、あらゆる意味で日本特有の"大人騙し"の"通俗"なのである。
早乙女主水之介は"大人"の男である。昔の感覚で言えば、大人の男とは女房·子供がいるものである。それを養える、保護できる、そういうことが男にとって嬉しいことであると同時に、義務になるのは面倒なことである。ムシがよくていい加減なところに男の願望本質があるのだが、そういう前提のもと、早乙女主水之介には女房·子供がいないのである。子供の代わりとして子分がいるのである。それによって父子的でありながら父子ではない、面倒くさいことを考えないで、親子関係の実質だけは味わえるという、実に理想的な関係となる。そして女房の代わりはというと、内と外とに一人ずつ女がいるのである。内には妹がいて、外には"自立した愛人"が。そしてさらには早乙女家を実質切り盛りする"爺や"という存在までいるのであった。
早乙女主水之介は男の重圧が全部解消されて、満たされているのである。だから平気で退屈をしていられるのだ。
では、いったい早乙女主水之介のなにが、それを可能にしたのであろうか。実は『旗本退屈男』は、まさにそれを学ぶための人生の教科書になり得るものだったのである。
早乙女主水之介-市川右太衛門扮する-には全身から発散する"色気"があるのである。それはあまり"色気"とは理解されないもので、""ゆとり"とか"自由さ"とか"豪放""快活"等と言われるものである。
"色気"というもののなかには、他人を惹き付ける為だけではない、他人を自由に遊ばせておく、そういう色気もあるのである。太陽のような色気、その人の色気に吸い寄せられた周りの人間が、その人の回りを自由に動き回ることができる、そんな色気。理想のヒーロー早乙女主水之介のイメージに、市川右太衛門の陽性の魅力ががっちりはまったのである。そしてそれを観る観客にも得るものがあったのである。だから大人の男は『旗本退屈男』を見に行ったのである。
しかしこの教科書は結局"男の独善"というようなところに落ち着いて教科書になれずに終わってしまった。「大の大人がいい年して、チャンバラ映画なんか見て」というところになって、チャンバラ映画は衰退してしまったのである。
教科書を教科書にするんだったら、その教科書を使って現実を変えていけばよかったのである。「自分が早乙女主水之介みたいになれるような方向で現実が豊かになって行かないから、この日本の現代というのはつまらないんだ」と、そういう発想をすれば、立派に『旗本退屈男』は人生の教科書になれたのである。

その二につづく


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