精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その六

内田吐夢は、東映の誇る"巨匠"である。多くの日本映画の"巨匠"達と同じように現代劇と時代劇の両方を撮っているが、この人ほど現代劇と時代劇で徹底的違いを見せた人はいないと橋本治は言う。現代劇では、"社会派の巨匠"達がやるようなリアリズムをもって撮影するのに対して、時代劇では平気で陳腐な絵空事を出すのである。その例として橋本治は昭和三十六年から一年一作のペースで作られた『宮本武蔵』全五部作の三作目『宮本武蔵·二刀流開眼』のシーンを挙げる。
剣の道を志し、京にやって来て名門中の名門だった吉岡道場の当主を倒した武蔵。天下一流の剣法者の門口に立った瞬間である。このシーンで突然朝靄の林の向こうの空に、クイクイクイッと一筋の赤い雲が浮かび上がってくる。武蔵の心象風景と合致するような夜明けの光が都合良く射してくるのである。明らかな作り物である。陳腐な絵空事とはここであるが、これがなければ時代劇ではない。これは歌舞伎から脈々と続く時代劇の美学である。この夜明けの雲を見て観客は感動する。
そしてさらに武蔵が歩き始めるととんでもないことが起こる。一筋の朝焼け雲の空は、そのまんま真っ赤な朝焼けの空へと変わっていくのである。あからさまににも東映のスタジオ内だった一筋の朝焼け雲は、一面真っ赤な実写の朝焼け空になるのだ。陳腐というのは、作り物の朝焼け雲がクイクイクイッと現れてしまうことであり、異常というのは、その朝焼け雲が平然と、広大なる自然に変わってしまうことである。この一事は、"時代劇とはなんでもアリだ"ということを意味する。
「作り物のホリゾントで、スタジオの中であることがバレても一向に構わない。次の瞬間、それは雄大なる朝焼けに変わっていくのだから。その平然たる地続きさ加減が、なんでもあるものは平明に映し出してしまう。明快なる時代劇の世界だから」と内田吐夢は言っているのである。だからこそ、"明らかに作り物である"という領域に入り込んで、更にその先、"どうだ文句あるか?感動するだろう、感動とはこういうもの"という領域にまで平然と、容赦なく、突き進んでいくのである。
時代劇は作り物である。そのことを何よりも雄弁に語っているのが内田吐夢である。「時代劇は時代劇、現代劇とは違う」と言っている"巨匠"はこの人だけだと橋本治は言う。現代劇と時代劇を両方撮る"巨匠"は"現代劇のタッチ"で時代劇を撮る。だからこそ「陳腐な時代劇とは違う」という形で評価される。大映の時代劇はこれである。東映の平明で明るい世界が商売にならなくなったとき大映はコントラストによる"影"を描く現代劇タッチを使った。一方の東映は"影一色"のヤクザ映画となる。
内田吐夢はこの両方を股にかける大巨匠なのである。橋本治は、内田吐夢が"現代劇タッチの時代劇"も平気で"作り物の時代劇"のワンシーンとして叩き込んでくる、として『宮本武蔵·一乗寺の決闘』のシーンを紹介する。
この作品は『二刀流開眼』の翌年の作である。当主を倒された名門吉岡道場は、名門の面子にかけて武蔵を打ちたい。そこでまだ十歳にも満たない当主の遺児を仇討ちの名義人に立て、武蔵に戦いを挑む。武蔵が倒すのはこの子供であるという、後味の悪い凄惨な戦いが一乗寺下り松の決闘であるが、これを内田吐夢は、"白黒"で撮る。"総天然色東映スコープ"と銘打ったこの作品でこの決闘部分だけ"白黒"なのである。このことを橋本治は次のように解釈する。
色という余分なものに目がとらわれて、肝心のドラマが拡散してはいけない。肝心なドラマ、それは子どもを殺さなければならないという、"目をそらせたくなるような後味の悪いドラマ"である。武蔵はそれを乗り越えなければならないのだから、この後味の悪さは徹底的に納得の行く後味の悪さに置き換えなければ、この事が表現されたことにならない。表現とはそれくらいすごいことで、それくらいの表現を要求するくらい、"描かれる"という業を背負った人間社会はすごいのである。
名門の誇りを守るために子供を盾に、七十三人総掛かりでたった一人を待ち伏せにしている、そういうどうしようもないような世の中に対して立ち向かっていく、立ち向かっていかずにおれない人間の姿を描いていくのがこの内田吐夢による『宮本武蔵』なのである。
この決闘で武蔵が"勝つ"ということは一つ。仇討ちの名義人である子供を倒せばいい。だからそれだけならいともあっさり終わる。怯えて逃げる子供を後見人の叔父(山形勲扮する)もろとも後ろから一突きで殺す。そして、その先重いのが、取り囲む多くの敵を振り切って逃げる時間である。
武蔵の逃げる方向は泥田の中、狭く足場の悪い畦道を進まなければならない。両手には二本の刀を持っている。決して軽快な"疾走"などできるはずがない。腕は振れず、上体は立ち、脚には全身の注意が集中され、足場を崩さぬよう踏みしめて踏みしめて一歩が刻まれる。
ここで観客が見るものは、"逃げる---その為には走る"そのことだけは分かっていて、決してそれが出来ないでいる、人間の姿である。分かっていても出来ない。その出来ないでいる状態に深入りすればするほど、初めの"分かっていた"という状態が曖昧になってぼやけて来る。分からないでいる中で、必死になって「分かっている!分かっている!」ということを主張だけして這いずり回っている、そういうブザマな姿をさらけ出すのが人間だという、そういう"真実"である。
ここに余分な色がついていて、うっかり冬枯れの野が「あ、きれい」と見えてしまってはダメなのである。"色がある"とはそういう余分を可能にしてしまうことなのである。ここで必要なのは「人間とはそういうものだ。私達はそうだろう?サァ、見ろ」ということであり、ドラマを見せるというのはそういうことなのである。その為に色が必要なら平気で色をつけるし、不必要なら色を取っ払う。それは"作り出す"という一点で全く同じであるというのが内田吐夢のリアリズムなのだ。
この考え方の前提には、"すべては見せることが出来る"という、平明なる一望主義がある。普段はそれを見ないけれど、ちょっと視線をずらせばそういうものはある。ある以上は「ちょっと見てごらん」と平気で見せることもできる。
だから内田吐夢は、平気でズブズブと人間の泥沼の中に入っていってしまう。日本的"なんでもアリ"の平明さは、「そこに泥沼がある」それだけなのである。
内田吐夢のそれが"怪奇趣味"や"残酷趣味"にならないのは、内田吐夢のこわさが平気でそこへ向いてしまう、平気でそこへ入っていってしまうという、その平気さの瞬間にあるからだ、と橋本治は言うのである。

その七へつづく
話は、内田吐夢が『宮本武蔵』の前に撮った『大菩薩峠』三部作、そしてその『大菩薩峠』の原作中里介山の小説版を通して"男と女の関係"へとすすむ


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