橋本治とマキノ雅弘

橋本治はかつて、(おそらく)一度だけマキノ雅弘(雅裕)と仕事をしている。時は1986年。
きっかけは、本木昭子に『完本チャンバラ時代劇講座』を送ったこと。本木昭子とは、モデルの山口小夜子のマネージャーでいろいろなイベントの企画やプロデュースなどもしていた方。橋本治とは、1984年に柏ローズタウン開店五周年記念に、橋本治の手編みニットファッションショーをやっていた。
1986年1月、本木昭子は、渋谷に新しくできる東急のファッションビルの開店イベントの準備をしていた。そこへチャンバラの本が届いたもんだから、「これだ!」となって、急いでマキノ雅裕を訪ねた。
4/29のオープン日にパレードをするから、その演出を橋本治に依頼してきたのである。「監修はマキノ雅裕で」と。
この話が来て、橋本治は迷ったそうである。マキノ雅裕は、"近代日本の大衆娯楽"というものを作った人。一例として橋本治は、次のエピソードを紹介する。
マキノ監督は、『血煙高田馬場』の立ち回りシーンを撮影する前日に、主演のバンツマを連れてダンスホールに行き、バンドにジャズを演奏させながら、ジャズの動きで時代劇の立ち回りを自らやって見せたのだ。観客にジャズという異国の音楽の持つ違和感を感じさせるのではなく、ただそこから抽出される躍動感だけを伝える。"まだその時点では存在しないけれども将来当たり前になってしまうだろうような躍動感"というものを創ったのである。"大衆的なるもの"というジャンルの"根本"つまり"空気"を創ってしまったすごい人なのである。
そういうすごい人を上置きにして、演出しろと言われてもにわかに「ハイ」とは言えないが、そこへ本木さんに「マキノさんに柏のファッションショーの話をしたら、マキノさん、"イキやなァ、今時そんなイキなことするやつがおるんやなァ"って」と言われたのである。それで「やります」と。橋本治は臆面もなく泣いたそうである。「やっぱり神様はいる」と。
橋本治は、"本質的なもの"を信じている、と言う。もうみんな忘れているかもしれないが、確かにこの地には"本質的なもの"というのがあって、そのことを受け継ぐのが大人になることだ、と。自分の存在理由は、そういう見えないけど確かに存在している"本質"という正統のきちんとした継承なんだ、と。
橋本治は、この渋谷の話を「やる!」と言ったときから勝手に、「この件で、僕はマキノ雅裕の"最後の弟子"になるんだ!」と決めたらしい。「先生のやって来たことは多分こういうことで、それを"今"という時代に持ってきたらこういうことになるんじゃないか?」「マキノ雅裕のやったことは、全部やるんだ!」とふとどきなことを考えていたとか。
だから言われた通りになんかは絶対にやらない。黙って先生の言うことだけを聞いてて、そこから使えるものだけ引っ張り出してきて使う。人にものを教わるなんていうのは"盗む"ということしかありえない。先生の言わんとすることを、御意にかなうようにアレンジする、御意にかなわなくとも、これで間違いじゃない、というところへ持っていく、その判断をしてくれるのが"監修者"だと。
マキノ雅裕は最初に「祭りに一番必要なのは空気です」と言ったそうな。マキノ雅裕という人は、実際になんにもない時代に"空気"というものを一つ一つ形にして作ってきた人である。だったら今だって同じだ。そう思って、「だったら、"マキノ雅裕"になってやる!」「創始者であれ!その為に監修者はついてるぞ!」そのようにこの一件を解釈したと言う。
以上のことは、1988年刊行の徳間文庫『根性』に、より詳細なエピソードとともに収録されている。※柏のファッションショーの話も収録されている。
この文庫本の解説はテレビ演出家で、『ちゃんばらグラグィティー』の編者でもある浦谷年良。その解説を一部紹介。
「私はかつて69歳のマキノさんが、78歳の伊藤大輔さんの前で泣き出したのを見て、感動したことがあった。(中略)時代劇がこれで終わっていいのかって話になってね、マキノさんは「伊藤先輩、もう一度時代劇を撮って下さい!その時は、私を助監督に呼んで下さい、一番に駆けつけますから」って言いながら泣いていたのね。多分、人間は、尊敬できる人の前では平気で泣けるんですよね、相手が、それを許してくれるだけの大きさ、包容力ってものを持っているから。
それで、橋本さんが目指してるものって、その包容力を持った"究極の笑顔"でしょ。(中略)他人を自由にさせる笑顔、周りをのびのびさせる笑顔、正義の笑顔、そういう笑顔を平気で出せる境地に近づくために、今、「根性」磨いてるわけよね。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?