橋本治と川田晴久 その三

川田晴久と相似形をなす存在、マキノ雅裕。
ここで橋本治は、1940年の『清水港代参夢道中』というマキノ監督、主演片岡千恵蔵の映画を紹介している。
この映画は前年に作られた『清水港』という映画の続篇という扱いで、「清水の次郎長物語」を題材にした設定を踏襲している話になっているのだが、これがSFで、浪曲入りバックステージ·ミュージカルになっている、という不思議な映画なのである。
主演の片岡千恵蔵は舞台の演出家、演出している舞台が「森の石松」。演出に苦悩して、うとうと眠ってしまい、気づくと江戸時代の清水港に自分がいる。なんと「森の石松」その人になってしまっているのである。演出家は訳が分からずにいると、親分次郎長に四国金比羅に代わりに行ってくれと頼まれる。演出家は、まさにこの芝居の演出をしているのだから、これに行けば自分は殺されると知っている。困った石松の演出家は、(石松の)許嫁であるお文に、金比羅代参に行けない理由を話す。石松の頭がおかしくなったと思うお文は、だったら私も一緒に行く、となる。演出家は、史実では石松は独りで四国に行って殺されたことになっているから、二人なら殺されないはず、と考え、お文と共に、「石松代参」が始まる。無事にお参りを済ませ、三十石船に乗ると、そこには粋な旅人風の浪曲語り--広沢虎造が乗っている。そこでたっぷりと虎造節を聴かせると、話は「森の石松物語」になっていき、とうとう石松は、都鳥の吉兵衛の子分に斬られる、というところで夢から覚めて、演出家は我に返る。
エンディングは、劇場の幕が開き、「ちゃっきり節」を歌い踊って終わりへと向かう。
なんでこんな不思議な映画が出来上がったのか、橋本治は次のように解説する。
主役の演出家は「マキノ雅裕自身」であろう。「森の石松」というキャラは好きだが、「こうすればこうなる」と分かりきっている浪曲ネタの、ウェットなチャンバラ映画なんかは作りたくない。じゃあどうするかで、そのプロセスそのものを映画にしてしまったのだ。
マキノ雅裕は、「日本映画の父」と言われる牧野省三の長男として生まれた。川田晴久の一歳年下の同世代。家業を継いで映画監督になったのである。「映画の家」に生まれて映画の中で育ったマキノ雅裕には、「分かりきった内容の映画をダラダラ撮る」ことは堪えられない。でも「家業」だから客の来る映画を作らなければならない。だから、マキノ雅裕は、「分かりきった骨格」に「異物」をどんどんぶち込んだ。
時代劇の中に「歌」という異物を持ち込んだのもマキノ雅裕である。『清水港代参夢道中』の前年、『鴛鴦歌合戦』という時代劇ミュージカルを作っている。異物が全体と調和して「おもしろい!」という結果になれば文句はない。それがこの時代のマキノ雅裕である、と橋本治は言う。
異物だらけの『清水港代参夢道中』が全体は「森の石松のおもしろい映画」になっている。「異物だらけのくせに破綻を見せない」というのはあきれたぼういずと同種なのである。
川田晴久には「歌」という基本がある。でもそれだけでは自分達の納得できるものになっていない。納得させるために「異物」を片っ端から取り込んだ。
取り込まれ、消化された時、「異物」は「自分の体質に合致したもの」になる。そうなることをこそ「取り込む」という。
川田晴久によって取り込まれた浪曲は、彼の中にあるスイングジャズと等価のものになる。だから「浪曲の臭さ」はないのである。これは「大衆映画の職人監督」と言われながら、素晴らしいセンスで異物を取り込み続けたマキノ雅裕のあり方と同じなのである。
そしてこのあり方は、二人が飛びついた広沢虎造その人のあり方でもある。
広沢虎造は、「芝で生まれて神田で育ち」の江戸っ子である。浪曲の「浪」は大阪を表す「浪花」の「浪」で、浪花節とは大阪メロディのことである。
広沢虎造は、大阪で浪曲師となり、東京へ帰って改めて東京の浪曲師から東京風の節回しを習った。更には講談の師匠について、講談ネタである『清水次郎長伝』を習って自分流の浪曲にした。これは決して浪花節ではなく浪曲なのである。
広沢虎造の浪曲は、「浪花節の泥臭さを払拭した粋なもの」だったのだ。橋本治は、その粋(センス)は広沢虎造の論理に表れている、と以下の件を紹介する。
石松「次郎長ってのはそんなにえれェのか?」
江戸っ子「"か"とはなんでェ、"か"とは。"か"だの"だろう"という言葉はねェ、人を疑ぐるよ」
攻撃的に見えて、しかし決して攻撃的ではない。「人を疑るよ」という受け方が「都会のセンス」で、この一点において、広沢虎造の浪曲は、「古臭い浪花節から離れた、都市的な昭和の浪曲」になったのである。二人が飛び付き共鳴したのはこのセンスである。

自分の外にあるものを習う。その限りで、自分の外にあるものは「本物」で、自分は未熟な「偽物」だけれども、それをマスターしてしまったら、マスターしただけの「本物」と言われるものは、「自分と一線を画した異物」でしかない。それからどうするかは二つの選択肢がある、と橋本治は言う。
一つは「異物のままのものを更に自分に引き寄せて、自分なりの本物に変える」
もう一つは「まだ本物ではない自分は偽物だと断じて、ひたすら本物へ近づく道」
お分かりだと思うが、前者が川田晴久、マキノ雅裕、広沢虎造、そして橋本治自身である。
後者は、「本物のブロードウェイミュージカルの翻訳公演」へと向かう、戦後の日本のミュージカルなどであろう。

橋本治はこの論考をこう結ぶ。
道は二つある。でも私は、「自分に合致した"偽物"の皮をかぶった本物」も好きだ。いや、すべての本物は、そういうものだろう。




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