精読『完本チャンバラ時代劇講座』第三講その一

第三講は、チャンバラ時代劇のもうひとつの側面、「格調の高さ」について。その主役は『忠臣蔵』である。
『忠臣蔵』の話の前に橋本治は、明治以降、大衆が獲得していった教養("通俗教養")はどんなものであったかを語る。
士農工商の身分制度があった江戸時代、町人は野放しにされていた。それはまるで子供のような扱われようであった。こどものまんまで野放しだから、江戸は町人文化の花盛りとなる。町人は"物語"という娯楽を作り出し享受するが、その"物語"は全部自分達とは関係ない"上の方"のことで、内容は現実離れのした冒険だった。
娯楽というものは常に気軽に楽しめるものでなければならない、ということであれば、娯楽物語はいつだって気軽な他人事である、というのが簡単な娯楽の本質ではあるが、それとは別の考え方もある。
それは、江戸時代、町人は生きる主体を武士に奪われていたから、自分達の"物語"を作れなかった、ということである。自分達の人生は"町人"という枠組の中に収まっていて、夢という素敵なものは"武士"という自分達とは関係ない世界にしかない、江戸の"物語"は子供の時にしか存在しない夢の物語だったのである。
それが明治になって崩れるのである。武士(おとな)と町人(こども)という差別がなくなったということは、子供はいつまでも子供のままでいてはいけないということである。
というわけで日本人は"大人"になる。大人になると決定的にないのが"物語"である。今まで日本には"大人の物語"("夢物語ではない現実的な物語")なんてなかったのである。
そんな大衆の前に、明治はじめに、東京で最初の日刊新聞『東京日日新聞』が登場する。
江戸時代にニュースというものは流れなかった。流れたのは"読売(瓦版)"という不定期の"噂"だった。
明治になってニュースが流れるようになる。自分達の住んでいる現実に毎日ドラマが生まれていることが明らかになる。この『東京日日新聞』が売れているのに目をつけた絵草紙屋が新聞記事の中から面白そうなものを選んで一枚刷りの錦絵にして売り出し始める。当然センセーショナルな話の方が面白い訳なので、猟奇的な絵が描かれ、添えられる文章には、なにも知らない子供に物事を教えるような、女性にモラルを教えるような、"正義"を解く、そういうものであった。明治はじめには、基本トーンがチャンバラ映画と同じ"娯楽"がすでにこのように確立されたのである。
大人は現実と格闘して生きている。真面目に生きるということがどういうことなのかを考えなければ、いつだって現実に押し潰されてしまう危険性がある。だから、真面目に生きるとはどういうことか、そして真面目に生きている自分はやっぱり正しい、そういうことを考えさせてくれるのが、大人にとって娯楽なのである。
そのような娯楽の典型が忠臣蔵なのである。
明治以降の忠臣蔵の歴史には三つの要素がある、と橋本治は言う。
一つ、江戸時代には正式な歴史というものがなかった。
二つ、大衆というものは、自分の人生に役立たないものは面白いとは思えない律儀さを持っている。
三つ、忠臣蔵には人生がある。
忠臣蔵とは"くやしさのドラマ"である。
人間は現実生活の軋轢の中で、一つや二つどころではないくらい"くやしさ"を持っている。日常生活の中で"くやしさ"を爆発させてしまったら平穏な生活がその瞬間に破綻してしまう、だから"くやしさ"は我慢するしかない、というのが大人の知恵なのである。
しかし忠臣蔵は違う。"くやしい"と思ったことが公然と爆発して、それが天下晴れて"義士"という形で誉め称えられたドラマなのである。
浅野内匠頭という殿様は「くやしい!」ということを表沙汰にして破綻してしまったが、しかしあくまでも殿様は立派であった、そういう形で自己完結してしまわなければ、到底その仇を討つという行為が立派なものとして提唱されない。だから、立派でありさえすればなんとかなるという生活訓がここから導き出される。
江戸が終って明治という新時代が始まった時=日本人全員の上に平等に"国民"という立派な大人になることが課せられた時、とりあえずの納得できる目標というものは、"立派な人"という大雑把な言い方で表されるようなものしかなかったのである。それは"格調高い"というベールで包まれていた。だから"格調の高さ"というものは、立派に娯楽であり通俗であり、立派に役立ったのである。
それは日本人の教養への道でもあった。格調高い世界は色んなことを教えてくれて、知らない歴史的事実を明らかにしてくれた。忠臣蔵の浅野内匠頭という人が"浅野内匠頭"という名前を持っていることを一般の人が知ることが出来るようになったのは、新聞が出来、ニュースというものが流れるようになった明治になってからのことだったのである。
忠臣蔵の決定版というのは普通、江戸時代の人形浄瑠璃(後に歌舞伎化)『仮名手本忠臣蔵』ということになっている。"忠臣蔵"という名称がここから来ているのである。この言葉が一人歩きして赤穂浪士·赤穂義士の物語の総称を指すものとなってしまったのである。
しかし、事実を舞台化することを禁じていた江戸時代、『仮名手本忠臣蔵』にはもちろん、浅野内匠頭も吉良上野介も大石内蔵助も赤穂浪士も出てこない。『仮名手本忠臣蔵』は、『太平記』の時代背景だけを借りて、赤穂浪士の物語を題材にした、よくできたドラマというだけなのである。
そもそもこの『仮名手本忠臣蔵』には、いまとなっては有名な忠臣蔵のエピソードというものが出てこないのである。こういったものは史実が解禁された明治以降に、膨大なる枝葉の物語としてくっつけられたものなのである。そしてその最大の決定版として橋本治は、昭和39年NHKが一年間に亘って放送した大河ドラマ『赤穂浪士』を挙げている。枝葉の物語には、一年五十二週とすれば五十二時間を必要としたのであった。
では改めてその枝葉の物語を獲得する以前の江戸の『仮名手本忠臣蔵』とはどういうものであったか。橋本治は"運命ドラマ"と表し、それが顕著な九段目を紹介している。
九段目には加古川本蔵という人物が登場する。この人物がどんな人かというと、江戸城内松の廊下で高師直(≒吉良上野介)と立ち話をしていた人で、塩冶判官(≒浅野内匠頭)が師直に斬りかかった際に、判官を抱き止めた人物なのである。史実では梶川与惣兵衛という名前を持っています。江戸のドラマ作者はこの人物に目を付け、もしこの人の娘が大星由良助(≒大石内蔵助)の息子と婚約している間柄だったら、という仮定を創作してドラマを作り出したのである。そしてさらにもう一つの仮定、この人物が、塩冶判官の無事な同僚·桃井若狭助(≒伊達左京亮)の家老だったら、というものが加わる。伊達左京亮とは、浅野内匠頭と共に朝廷からの使者を接待する役目を仰せつかった人物である。
詳細は省略するが、つまるところ、『仮名手本忠臣蔵』では、忠臣蔵を構成するきっかけは全部、この加古川本蔵のしたことというふうにドラマは進み、さらには大星由良助一家との間には"婚約"という糸があるのである。一方は主君の仇を討たなければならない人物、もう一方はその主君の仇を取り逃した人物。それが持ち越された状況で演じられるのが"九段目山科閑居の場"なのである。
加古川本蔵の娘·小浪は、母親の戸無瀬とともに、雪の中、由良助一家の住む京の山科を訪れる。大星力弥との祝言のためである。しかし由良助の妻·お石はこの二人を追い払います。そこに登場するのが加古川本蔵。再度お石も現れ、お石は結婚の条件として本蔵の首を要求する。お石と本蔵が立回りを演じて、お石は本蔵に組み伏せられる。そこへ今度は由良助とお石の息子·力弥が飛び出してきて、槍で本蔵を突き刺す。
加古川本蔵はこうなることを承知で、娘の幸福のためにここにやって来たのである。そして、「たぶんあなたはそう思って私の家へやって来たのだろうから、自分の息子にあなたを刺すように命じた」と言って登場するのが由良助なのである。
由良助は、主君の仇を討つのと同時に自分の死を覚悟しているし、父親の死という代償を払って力弥と結ばれる小浪も、同時に夫を失うことになるのである。仇討ちという行為の中で、みんな死んでいく。覚悟の上で死んでいくものはみんな立派な侍である。一体どうしてそんなことになったのかといえば、それは勿論、塩冶判官(≒浅野内匠頭)が我慢というものをしなかったからであるというところまで、『仮名手本忠臣蔵』の九段目は言うのである。この九段目で江戸の作者は"浅きたくみの塩冶殿"という表現を持ち出している。観客は"塩冶判官"なる名前が"浅野の殿様"を指すことを知っている。知っていて、「浅野内匠頭は思慮(=巧み)が浅かった。だから浅野内匠頭だ」とまで持っていってしまうのが江戸なのである。
江戸の忠臣蔵は、明治以降に知れわたるような"くやしさのドラマ"ではなかったのである。考えが足りない主君の下にいなければならなかった、二人の家老の宿命の物語(=運命ドラマ)なのである。
なぜこのように"加古川本蔵≒梶川与惣兵衛"のような第三者が影の主役に仕立て上げられることになったのか。橋本治は次のように言う。
江戸のドラマ作者たちは、「事実はドラマではない」「事実をそのまんま舞台に乗っけるような能のないことはしない」、そういう美意識を持っていたのである。"ない正確な知識"の存在を「ある!」と前提にして、その上にドラマを作って行くのが江戸のドラマなのである。それが江戸のドラマ作者の"芸"なのである。
だからして、江戸のドラマを何遍見ようが、史実に詳しくなることはない。江戸が終って明治になってからみんな気づいたのである。「本当の歴史については、よく考えるとなにも知らない」ということを。
だから、新聞や新聞錦絵が"娯楽"になる時代がやってきて、それは"事実""史実"が娯楽になる時代ということなのである。
史実を「面白い」「現実の生き方に役に立つ、教訓になる」と思い始めたとき、その対象は同時に、歴史に関する教養を高める教科書にもなったのである。それを含めて"格調の高い時代劇"は面白かったのである。「面白い」と思えたからこそ、その教養は"通俗教養"というものになったのだ。
この"通俗教養"の王者に講談がある。

その二につづく










 





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