橋本治『風雅の虎の巻』「風の音を知れ」を読む

『風雅の虎の巻』は1988年9月に刊行された。
「花の名前は知らねども」「鳥のように」「風の音を知れ」「月見れば千々に心は乱れても」の4部構成となっている。今回はこの中の「風の音を知れ」を読む。
橋本治はここで、「人間のすることすべては最終的には娯楽(エンターテインメント)である」と言っている。なぜなら、どんなことでも、出来るまでは悪戦苦闘のつらい日々で、出来るようになったら後は楽、それをすることが楽しくなって遊んでいられるようになるから。
橋本治は"自分"というのは三人いると言う。衣裳に包まれた"思う我"である"あてどない自分"、"衣裳"でありその衣裳を選ぶ"主観"と言われる自分、その衣裳をまとった自分の判断をする"客観"と言われる自分。そしてここで近松門左衛門の「芸といふものは実と嘘との皮膜の間にあるもの也」という言葉から、"芸"とは主観なのだ、と言う。虚と実の間で揺られながら、バランスを取りながら"芸"という表現(じぶん)を進歩させていく、そのプロセスを"修行"という、と。
人間にとって修行は当たり前のことで、修行には二つの段階がある。一つはスタート地点に立つための修行。もう一つは、"一人前の自分"としてスタートした後にある、より優れた表現者(じぶん)である為の修行である。
ここで言うスタート地点とは、一人立ちする=一人前になる、という段階である。これは概ね外からの規定による。つまり、昔なら、親方や師匠といった類いが「お前ももう一人前だな」と言って第一段階の修行が終わるのである。このとき親方や師匠は「そのことで遊べるようになっているか」という点で"ゴール"を見ているのである。これは所詮スタートラインに立ったばかりのヒヨッコ状態である。
一通り出来るようになってそのことを楽しめてもいつの間にか飽きが来るということもある。そうなったら次の段階の修行の門口に立っているのである。そのようにそれぞれ必要な分だけ修行はやって来る。しかし人間は愚かでもあるので、"いい気な一人前"になって、そのまんま道を踏み外す、ということだってあるのである。
つまるところ、人間とは、苦労しないと"面白さ"というものが分からないのである。これが、人間のすることすべて、最終的には娯楽(エンターテインメント)である、ということの内実である。
ここから橋本治は、娯楽の本質を具体例で挙げていく。その中からいくつか紹介。
·スター
これは"人間"である。人間にとって最初の表現は"人間であること"であり、最初の表現手段は"自分"である。日本人にとって、「そこに自分がいる!」と思えるような輝きは、みんなスターである。スターというものは大衆にとっては"達成された自我"であって、実質は"特異な人間"である。スターは一番真似をしたいという欲望を掻き立てられながらも一番模倣しにくい存在であるので、その亜流というのが存在する。それがタレントである。タレントは"普通の生活の代表者"なのである。
·小説
これはメロドラマつまり"すれちがい"である。文章というものは一本の線で出来た論理である。文字によって"書かれていること"と、その行間にある"書かれていないこと"が絡み合って、文章という全体を作る。文章というもの自体が"文章と行間のすれちがい"なのである。
·映画
絵による音楽である。「物語によって絵が流れるもの」と思われがちだが、映画というものは"音楽によって流れていくもの"なのである。
·演劇
分からない。かつて演劇は娯楽の王様だった。だから本質とは何かが簡単に出せそうなものだったが、今や演劇以外の娯楽メディアがゴマンとあるので本質が見えなくなってしまっている。
そこで演劇に一番近いものは何かと考えると、それはマンガである。マンガは枠という固定された時間の中で"表情"というドラマを作中人物が演じる。演劇も、固定された舞台装置の中でドラマが演じられる。マンガの作中人物の表情キャラクターは、全部作者の手によって変形される。それは舞台のメーキャップの約束事に近いものである。
演劇はその初めとてもマンガ的なものだった。その本質をひとことで言えば、人形芝居である。演劇は人間が人形になるものだったのである。
·踊
「私が何を表現しているのか当ててください」というジェスチャーゲームである。
·盆踊り、民俗芸能
"参加するもの"。労働という苦役によって成立している地域共同体がその裏にある"歓喜"という表情を爆発させる。それを"見る"ということは、その瞬間自分もその地域共同体の一員であるという自覚を強制される。
"個人"という形で共同の場を離れた近代人にとって、祭りは郷愁であり同時に前近代的野蛮の象徴である。
現代は"幸福な祭り"が成立しにくい時代である。だから個人メディアのテレビは日常的に"祭り"を演じ続けている。あれにつきあってると体を悪くする。
·狂言
散文的スケッチである。
·短歌俳句
短歌はグリーティング·カードである。貴族という儀式、様式の中に所属する、関係だけで人生を演じていたものが作り上げた社交芸術。
俳句は"私的な述懐"である。日常的な市民生活から生まれてくる個人的な感慨·発見。もっとも短い小説である。
·絵画
"ドラマ"である。「ドラマを持ちたい」という願望。
·歌謡曲
"酒場女の嘆き節"である。世俗的な人間の感情を歌うドラマである。ドラマには登場人物のための衣裳が必要で、それが"酒場の女"である。
歌謡曲は江戸時代以来の人間社会を背景にしているからドラマが具体的である。その具体性は、基本的にその地に属する"労働"によるもので、結局それは"関係"や"制度""場"に縛られて、衣裳を捨てることができない。日本の歌謡曲は、感情を道具立てにすることは出来ても感情を独立させてて歌うことが出来ない---普遍的になれないというのは、その歌を必要とする人間達が"自分"という具体性を持ち合わせていないからである。
·女
風雅とは"つまんない社会からの逸脱"を根本に置くようなものであるから、男社会の外側にいる"女"というものは"風雅そのもの"である。だから金のある男は、女という男社会からの逸脱者を所有して、間接的に逸脱感を楽しむということをした。
"男という人間"にとって、性欲というものは知性と対立するものである。性欲は知性を跳ね飛ばしてしまう。なぜなら性欲というものをフォローするだけの論理を、人間の知性がまだ持っていないからである。「収拾がつかないっていうことが分かっているんだったら、そんなもん呑み込んでしまえ」という保留の哲学が日本の美学なのである。つまり日本の風雅とは、"まだ"という保留状態を前提として、「その中で人間はどう生きるか?」という"実用"なのである。
"男であること"を意識しなくてもすむようになったら、男はその瞬間"女"である。そのことに積極的な意味を見出だしたら"風雅"であり、なしくずしに"男"という美学を放棄したら"無責任にも女である"というそれだけの差である。




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