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KOJIKI<倭建命①>

今日から、「倭建命」のお話です。神話の世界の中で、彼ほどひときわ知名度が高く、人気もあって、愛情深い神様はいらっしゃらないと思います。12代景行天皇の御子で、皇子という立場にいながら、少年のころから帝の命で西征し、熊曽建(くまそたける)や出雲建を討った後、さらに東方12カ国平定を命じられた悲劇の皇子です。

 トップの写真は、近江国一之宮建部神社に今年参拝をしたときのものです。こちらが建部神社のHPです。http://takebetaisha.jp/top/ 

 倭建命のお子の建部稲依別命が日本の古代氏族の一つである建部氏の始祖でこの一族は、近江の瀬田一帯を守護するために、琵琶湖畔に居を移し、現在の建部神社には氏神様を移しました。

元々の建部神社は東近江市にあります。

DSC_0708のコピー

こちらが、東近江の方の建部神社。そして神社の目の前には・・・。

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神武天皇の遥拝所の記念碑が!!

倭建命のお話には、父子の確執があります。それなので、少し、景行天皇のお話もいたしましょう。景行天皇は垂仁天皇の第三皇子として誕生された皇子です。景行天皇が即位をされたのは84歳の時、そして妃が何にいたのかわからないほどたくさんいらっしゃって・・・『先代旧事本紀』では皇子皇女は全て81人、そのうち皇子は55人、皇女は26人。この中で皇子5人、皇女1人を宮中へ留め、それ以外の皇子50人、皇女26人、合わせて76人はそれぞれ国・県(あがた)にご委任なされた。国史には入れない

と、書かれています。ひゃー、子だくさん。倭建命は、景行天皇と稲美姫との間に生まれた双子のお一人です。幼名を兄君を大碓命(おおうすのみこと)、倭建命は小碓命(おうすのみこと)名付けられました。

母親の愛情はたくさん受けているのに小碓命は、とても気性が荒い少年でした。ある時、帝である父が、小碓命に「お前の兄さんはどうして、朝夕の食事にちゃんと顔を出さないのだ。」「お前が言って諭してやりなさい。」と命じました。

景行天皇が、大碓命と小碓命を大切にしていました。景行天皇の皇子の中で、正式に御子に定めたのはたった6人。その中にこの双子の御子は含まれています。6人を除いた70余人の皇子皇女は、みなそれぞれ国や郡に封じられて地方に赴いたとされます。

小碓命が兄を諭しに行ったことが、その後の小碓命の運命を大きく変えてしまうことになります。





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