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KOJIKI<大和②>

間が空いているうちに世の中も騒がしくなってきて、気がつけば旧暦の新年を迎えています。このタイミングで、神武天皇のお妃様のこと、今風で言うところの女性関係を掲載するのも・・・とも思ったのですが、齢65歳で「よき女子はいないか」と大和国をおさめるに相応しい姫を探す・・・。人生100年時代にある意味ぴったりの話題かもしれません。(若い姫君を好むところとか)

神武天皇は日向国にいらっしゃたっ時に阿比良比売(あひらひめ)と言う国神の比売をめとり手研耳命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)と言う皇子がいらっしゃいました。つまり、皇族です。この二人の皇子についても、手研耳命(たぎしみみのみこと)については後々古事記にも記載があるのですが、弟の岐須美美命(きすみみのみこと)については、後にも記載がありません。皇位継承に関係があるものだけ記す・・・。ふーん。

阿比良比売(あひらひめ)は国を出て行く夫をどのように思ったのでしょう・・・。

さて、そんな事は一切なかったのように、神武天皇は橿原の宮で天下をおさめる事になりそれに相応しい「皇后」を娶らなければならない!と考えました。

日向以来の譜代の武臣の大久米命が早速、情報を掴んできます。

「主上、この地に神様の御子だと伝えられている、姫がいます!」

「え、まじか。俺以外に神の子がいるの??? こんなところに?俺が神様の中で一番乗りじゃないの?」

「そ、それが・・・。いるんですよ。それも大国主命の出雲系ー。」

「!!!」

このような会話があったのかどうかは存じません・・・。しかしながら、神武天皇にはどうしてもプレミアム感を出さなければならない理由がありました。

ヤマトの国からすれば、九州から侵略した神武天皇の軍を撃退する大和地方の豪族がニギハヤヒの子孫の登美(とみ)のナガスネヒコ(長髄彦)です。最初の戦いで長髄彦に敗れた神武天皇の軍。兄たちも負傷し、戦死しています。それでも神武天皇の軍は熊野に上陸して八咫烏(やたがらす)の案内で再度、大和に攻め入りました。

両軍は戦いを重ねましたが、神武天皇の軍はどうしても長髄彦に勝利することが出来ませんでした。多くの血がれたのちに、饒速日(ニギハヤヒ)を先祖とする大倭の大王の長髄彦軍が勝どきをあげようとした時に金の鵄(とび)の不思議があり両軍は大地に平伏しました。

長髄彦は天神の子である証として天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を神武天皇に示すと神武天皇もまた同じ物を示しました。

どちらも天神の子、つまり同じ天孫族の子孫だったのです。

代々先祖から伝えられたお互いの部族のシンボルを見せ合うと一致したので戦いをやめて国ゆずりが行なわれたと言うストーリ。つまり決して神武天皇が「勝った」訳ではありません。

神武天皇の軍は和議を受け入れ日向と大倭は和合したと言うお話もあります。しかし、この講和条約に反対する大倭の人々がいたので神武天皇の即位は大倭から離れた柏原の地でおこなわれました。実は、奈良県御所市「柏原」に「神武天皇社」が鎮座しています。初代神武天皇の即位した場所であると伝えられています。

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写真は橿原神宮HPからです。

今の橿原神宮は、明治政府が国家神道の象徴として畝傍山麓に新たに創建しました。江戸時代の本居宣長が畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたことを伝え残している事を鑑みても神武天皇が即位するにあたっては複雑な事情があったことがうかがい測れます。

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こちらのお写真も橿原神宮のHPからです。

神武天皇を認めない人々によって再び戦乱が始まろうとしたので長髄彦は自らの命を絶ってその戦いを諌めたと言われています。現代でも長髄彦が自害したと・・・と言う伝承は根強く残っています。時代によって、藤原氏全盛期に記された日本書紀の影響や明治時代の国家神道の影響によって、時の為政者によって史実は変わると言うことの一例ですね。





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