阪急文化圏 ③カルピス からだにピース
昭和世代の多くの方が共通して知っているものの一つに「カルピス」があげられると思います。夏はカルピスをかき氷の上にかけたり、という思い出も皆さんありませんか?水玉模様に独特のデザインラベルがありました。このカルピスも阪急文化圏の方の発想で誕生したものです。
今回はそのお話。
関西では夏を代表する食べ物と言えば、鮎、京都では鱧でしょうか。老舗和菓子店の水ようかんなど、それぞれにおいしいものがありますが、私の小さい頃の思い出の一つに「カルピス」があります。おばあちゃんのおうちにいくと、冷たい麦茶とカルピスがいつも用意されていました。どうして、おばあちゃんって濃いカルピスを作ってくれるんでしょうね~。
明治11年7月2日、三島海雲(かいうん)は、現在の大阪府箕面市にある教学寺の三島法城の長男として生まれました。(西国街道沿いに教学寺は今もあります。ここは箕面市萱野という地名で、近辺には浅野内匠頭の切腹とお家取り潰しの報せを赤穂まで早籠で伝えた萱野三平の屋敷跡があります。忠臣蔵の討ち入りの11カ月前の主君の命日に、討ち入りに父が反対したため悩み、「晴れゆくや日ごろ心の花曇り」を辞世に自殺をとげた長屋門が残されています。)
海雲は16歳になると、京都西本願寺文学寮(今の龍谷大学の前身)に学び、卒業後は英語教師として山口の開導中学校に赴任します。しかし、間もなく24歳で東京仏教大学に編入。(これは、文学寮が大学に昇格したもので、当時は京都の仏教専門大学と東京の高輪仏教大学に分立。
後に京都に統合され、龍谷大学と改称され現在にいたります。知る人ぞ知る、仏教界の東大です)
やがて、日露戦争の直前という時代背景のなか、大学を中退し青雲の志をいだいて中国大陸へと渡ります。海雲は中国人に日本語を教える一方、中国語を学びました。そこで知り合ったのが、当時日本の山林王といわれた人物の息子 土倉五郎だったのです。土倉は刺激を求めて日本を飛び出して北京に来訪、ふたりは意気投合し、「日本という国を中国に知ってもらいたい」と、中国での事業計画を立てました。
1903(明治36)年25歳の時、土倉の資金援助で北京に「日華洋行」を設立しました。教壇から降りた海雲は、商売の基本を身につけるため、北京の街を行商して歩いていました。海雲の努力は実を結び、1年経つ頃には経営も軌道に乗り始めました。
次に手掛けたのは、軍馬の調達でした。ちょうど日露戦争が始まり(1904年~)、陸軍はいくらでも馬を欲しがったのです。海雲はモンゴル(蒙古)に赴き馬を買い集めました。こうして何度となく蒙古を訪れるうちに、蒙古の王族や貴族と親しくなったのです。
日露戦争も終わり、1908(明治41)年30歳の夏、海雲は内蒙古のケシクテンで、貴族のパオ(天幕)に泊めてもらっています。海雲は終戦後も蒙古にとどまって、同地の畜産をもり立てるために緬羊の改良につとめました。
この頃、長旅で体調を崩し不眠症になっていた海雲は、この地方の食べ物で、牛乳のクリームを発酵させたものに砂糖を加えた「ジョウヒ」という乳酸発酵物を毎日摂っていました。
すると次第に胃腸が整い、体重も増え、夜も眠れるようになった。海雲は、「不老長寿の霊薬に遭遇したようだ」と、この飲み物に強く引かれたようです。
さて、1912(大正元)年、辛亥革命によって清朝が滅亡、民族意識の高まりとともに、日本人への排斥運動が強まり、海雲らは1915(大正4)年、すべてを捨てて帰国することになりました。無一文で帰国の途につきます。
続きます・・・。