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KOJIKI<大和⑤>

神武天皇の皇后となった富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)は3人の御子を出産されたお話をいたしました。初代皇后となった富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)は神の声を聞くことに長(た)けていた女性だったことをは古事記にも書かれています。

さて、この夫婦睦まじく・・・の話を期待したいのですが、古事記は神武天皇が天皇に即位をしてからの治世にも触れず、137歳で崩御し畝傍山を御陵とる・・・と記載されています。せっかく国を治めるためにわざわざ高千穂からやってきたのに・・・。

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こちらが畝傍山です。この写真は奈良県の観光局からのものですが、豊かな水田の新緑の畝傍山。神武天皇の治世が豊かであったことを現代の世にも象徴するかのようなこの写真は、各種のHPで使われています。橿原神宮が畝傍山をご神山としているのもご存知の通りです。

さて、神武天皇は日向国にいらっしゃたっ時に阿比良比売(あひらひめ)と言う国神の比売をめとり当芸志美々命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)と言う皇子がいらっしゃいました。

神武天皇が崩御すると、この当芸志美々命(たぎしみみのみこと)は、義母にあたる富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)を強引に娶りました。出雲系の比売のブランド力は強し、と行ったところでしょうか。

<地の國⑤>で須佐之男命は大国主命が娘の須勢理毘売と駆け落ちをしようとした時に「我が娘の須勢理毘売を正妻とし」と告げているように、神話の世界でも、妃とされる妻と大后、皇后とされる妻には格差があったようです。この大国主命も須勢理毘売を正妻としたため、実が大国主命の妃だった八上比売(ヤカミヒメ)は恐れ、生んだ子を置き、稲羽(因幡)国に帰ってしまいました。つまり、妻の実家の力の差が権力に強さにそのまま・・・と言うことですね。

当芸志美々命(たぎしみみのみこと)の母は宮崎の地元の比売だったので、神武天皇の皇后となった義理の母(そして出雲系のブランド)を娶ることで力の差を埋め神の声も聞くことに長けていた皇后の能力にも神託が政治を左右する古代には必須であり、正当な皇位継承であることの名乗りを上げたようなものだったのではないでしょうか・・・。

もちろん当芸志美々命(たぎしみみのみこと)にとって、父神と皇后の間に生まれた3人の義弟である御子は目障りそのもの。殺してしまおう、と策を練り始めます。



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