見出し画像

近代都市の形成 台湾での活躍

 内閣府衛生局で仕事をし、ドイツに留学した後藤新平ですが、西洋の進んだ医学に触発される一方でコンプレックスをもち帰国したようです。
日本に帰国後しばらくして、後藤新平に運命的な出会いがあります。
 1895年(明治28年)日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に事務長官として広島で従事します。その働きぶりとまれに見る巧みな手腕を、この時の上司であった陸軍参謀の児玉源太郎の目に留まり、児玉が1898年(明治31年)台湾総督となると後藤新平を台湾での民政長官として抜擢をしたのでした。

 この台湾で後藤新平は天性の才能を発揮、行政について巧みな采配を振るいます。これは、特別統治主義とよばれているもです。
 日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治を行う事としていました。
 後藤は植民地の同化は困難であると考え、『生物学の原則』から、台湾の社会風俗などを徹底的に調査し、その結果をもとに政策を立案したのです。その結果インフラ建設を進めていったのでした。

 この『生物学の原則』とは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものでした。実施に台湾調査事業については国内から人材を招聘し、徹底的に調査を行いました。

 例えば、清朝時代の法制度の研究や農作物の殖産。この農作物の殖産については新渡戸稲造を招聘し台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良を行いました。新渡戸稲造氏は、そう、農学者で五千円札の肖像で、そしてなんといっても国際的に有名なのが『武士道』を著した事です。

イラスト|ピョートル・レスニアック Diamond Quarterly Online

 そして、次に後藤が台湾時代に行った業績の一つが「阿片」対策です。当時は、中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及していました。(阿片戦争で1842年に清が英国に敗戦し南京条約を結んでいます。)当然、これは大きな社会問題となりました。一方で「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなり、いつ抗争が起こってもおかしくない状況であったようです。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらず、まず阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用しました。
 この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。最終的に施策導入かた50年近くをかけて1945年に阿片吸引免許の発行を全面停止となり、台湾では阿片の根絶が達成されたのです。

 て、その後の後藤は1906年(明治39年)、南満州鉄道の初代総裁として、大連を拠点の満州経営に着手しました。大連の都市建設に携わったのです。ここでも後藤は台湾時代の人材を多く登用するとともに三井物産の門司支店長から抜擢された犬塚信太郎など年齢には関係なく見識、人物本位で招聘された30代、40代の若手の優秀な人材を活用し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充をしました。
 大連については以前お話を載せましたが、当時はロシア、日本、そして中国にとっても重要な都市であったのです。

戦前の大連の絵葉書。大連ヤマトホテルの奥の港には、昔は神戸からの定期船が就航されていたようです。

 後藤は満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉により満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することを時の首相、西園寺公望に承諾をさせています。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することも認めさせています。
 

また、長くなりますが、西園寺公望といえば、藤原家。そして弟君が学校法人立命館理事の末広威麿、そして末の弟の隆麿氏は住友家の入婿となり住友財閥をついで第15代住友吉左衛門を襲名、長く財界に君臨しました。西園寺公も幼少時には、住まいが御所に近いため、年齢も近かったことから、祐宮(のちの明治天皇)の遊び相手として度々召されています。
 現代日本も中心には藤原家の末裔があると言われている氷山の一角を感じていただけたと思います。

徳大寺家次男は、幼名を美丸(よしまる)といったが、2歳の年に同じ精華家の西園寺家の養子となった。この人物こそ、後の清風荘の主で、第12代、14代内閣総理大臣を務めた西園寺公望(1849-1940)

公望から16年遅れて清風館で誕生した四男の隆麿(たかまろ)は、長じて住友家に養嗣子として迎えられた。第十五代住友家当主住友吉左衛門友純(号・春翠:1865-1926)その人である。2人の写真は住友グループ広報委員会からです。

 ところで、西園寺公は教育熱心であったようですが、この辺りは近代日本史授業では全く出てきません。まず、京都の立命館大学。1869年(明治2年)京都御所内の私邸に「私塾立命館」創設したことが始まりです。
 京都御所内を散策すると「西園寺邸跡」という案内を見る事が出来ますが、ここが私塾の跡地でもあるのです。京都府庁の命令で1年半ほどで閉鎖させられますが紆余曲折を経て、「京都法政学校」(立命館大学の前身)を創設に尽力。戦前は立命館大学が西園寺家の家紋を使用する事が許されていたそうです。
他にも明治法律学校(明治大学)、第二帝国大学の京都誘致(京都大学)、日本女子大学の設立などにも尽力しました。

 うーん、この時代は生き方に魅力的な人が多すぎますね。それから、後藤新平氏自身の魅力で、本当にすごい方々とのご縁が数珠つなぎとなり、一人では出来なかった事も協力の下で大きな力となり達成できる。
 そのためには、ちょっとした障害も人生のスパイスとしてしまえるところなど、後藤新平の力量にも感嘆します。

 そして、大学についても。
今、有名校と言われている大学の多くの礎はこの明治時代に前身が設立されています。子女の高等教育について日本政府が、日本全体で力をいれ、強い理想と信念のもとで学校の設立に尽力しています。
 当時はまだまだ大学へ進学できる人はごくわずかでしたが、先人たちの想いがあってこそ、今の大学があります。
 大学はそもそもの社会的責任以上に高等教育機関である責任を負う必要がありますよね。まだまだ、後藤新平氏のお話は続きます。
是非、飽きずに続けておよみいただけると幸甚です。

いいなと思ったら応援しよう!