KOJIKI<まほろば⑤>

垂仁天皇の皇后、沙本毘売命はなくなる時に御子の乳母として

「丹波国に住む、比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)に兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)の二人がいます。立派な方々ですから、このお二人を」

と伝え炎の中に消えました。

丹波の比古多多須美知能宇斯王には4人の娘がいたので、垂仁天皇は「せっかくだから、まとめて面倒をみようか」と4人を呼び寄せました。これには理由があって、当時の習慣としてこの種の乳母は、お子だけではなくって、パパのお世話もするので、天皇も4人が宮城にお越しになるのを楽しみにしていました。

どれどれ・・・。ワクワク。て感じですね。

 到着した比売をながめ見ると、4人のうち2人はいいけど、残る2人は美しくない。「えーと、悪いけど、そちらのおふたりの方はお父さんのところに帰ってください。」と、お断りになられました。やんごとなき身分だからこそできる・・・のですね。こうして歌凝比売命と円野比売命は容貌が醜いとして国許に送り返されたのです。

父の、比古多多須美知能宇斯王は「なんてことだ!大切な娘にケチをつけて!」

と、激昂してもいいところなのですが、まぁ、きっと心の中は穏やかではなかったと思いますが、身分制度の厳しい社会にはそぐわないことなので

二人も返されるなんて、恥ずかしいことだ・・・。

円野比売命はこれを恥じ、この地で木の枝に懸って死のうと思ったのですが、死に切れず最後は深い淵に身を沈められました。そのためこの地は懸木(さがらき)と名づけられました。「今、相楽(さがらか)と云ふ」とも記されています。一方の歌凝比売命は国許への帰路に自害をなさいました。

残った二人のうち兄比売(えひめ)は垂仁天皇との間に5人の御子を儲け、そのうち大帯日子淤斯呂和気命(のちの景行天皇)が即位したのです。

ところで、垂仁天皇のお話としてはこの「不老長寿」にまつわるお話は有名です。

垂仁天皇の勅命を受けた三宅の連の祖である多遅摩毛理が、万里の波濤を越えて常世の国へ渡り苦労の末に10年かかり不老不死の霊菓・非時香菓〈橘〉をようやく持ち帰ったのですが、時すでに遅し、垂仁天皇は多遅摩毛理の帰りを待たずして、崩御されていたのです。

 持ち帰った橘の木の半分を皇后に献上し、残りの半分を天皇の御陵に捧げた多遅摩毛理の悲しみはよほど深かったのでしょう。泣き叫びながら、その場で絶命したと伝えられています。

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こちらは垂仁天皇の御陵です。奈良市のHPからです。こちらの古墳にはお堀に小さな島が浮かんでいて多遅摩毛理の墓と今も伝えられています。あ、古墳内はもちろん宮内庁の管轄です。

また、その橘を最初に移植したと伝えられる「六本樹の丘」というのが和歌山県の橘本神社近くにあります。

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この持ち帰った橘は改良に改良を加えられ、現在のミカンとなっとこの神社では伝えます。

この多遅摩毛理は日本書紀では田道間守と記されていて、学校唱歌になっていたそうです。

 香りも高い橘を
  積んだお船が今帰る
  君の仰せをかしこみて
  万里の海をまっしぐら
  今帰る 田道間守 田道間守

おはさぬ君のみささぎに
  泣いて帰らぬ真心よ
  遠い国から積んで来た
  花橘の香と共に
  名は香る 田道間守 田道間守

豊岡市のHPのこのお菓子の特集は田道間守についてわかりやすく載せています

http://toyooka-cci.jp/tajimamori/

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