未来

阪急文化圏②「如何なる土地を選ぶべきか・如何なる家屋に住むべきか」

前回の「阪急文化圏」の続きです。
 長くなるので、これも数回に分けて掲載させていただきます。

 1910年3月10日、箕有電軌の宝塚本線の梅田~宝塚の間と途中の石橋で分岐する箕面支線の石橋~箕面間が予定よりも3週間はやく開業しました。
 沿線には京都や神戸のような大都市やめぼしい観光地もなく、畑と田んぼの中をひたすら走るこの電車は「みみず電車」と揶揄されました。

林翁は開業に先立ち二度もこの沿線をあるいて往復しています。箕有電軌にのって大阪まで通勤する乗客を獲得する事が「会社の生命」(すなわち「私鉄王国」の誕生)を救うと考えたからです。(戦略)
 それをよく示すのがこのとき配布された「最も有望なる電車」、「如何なる土地を選ぶべきか・如何なる家屋に住むべきか」と題するパンフレット。
 37ページにもわたって、建築費から電鉄の価値などそしてこの鉄道沿線が選考している南海や阪神での沿線住宅に比べてどれだけ優れているか・・・載せています。ここで、小林翁がこだわったのは一戸建ての分譲住宅です。

はじめに開発されたのは、大阪府の郊外にあたる池田市室町。
(蛇足ですが、現在の阪急宝塚線の沿線駅の一つ。大阪より電車で約30分。
 摂津の国の池田城の跡を残し、五月山を背にし、
 また小高い場所からは大阪湾を見下ろす事が出来る。
 春は五月山を始め桜や山ツツジの花を、秋の紅葉をめでる事ができる。
 うどん屋「吾妻」は創業元治元年の大阪の老舗。この「吾妻」にぴーんと来た方 はかなりのツウ。
 谷崎潤一郎夫人がこの店をに来たのを機に細めんのうどんを「細雪」にちなんで「ささめうどん」と命名。このお店の名物の細麺のあんかけうどんです。)

そしてここが今のNHKの朝ドラ「まんぷく」の舞台となった場所でもあります。

ちょうど民間だけではなく、政府においてもヨーロッパの田園都市に対する関心が高まっていた事もあり、小林翁もこの田園都市構想を手本に池田市室町を開発 しています。
 特に、先行している阪神電鉄や南海との違いは・・・というと、
阪神(大阪から神戸間を運行。現在では山陽電鉄との共同運行で、梅田から神戸以西の姫路まで運行)も『田園都市構想』に触発され、大阪市内に住むことが健康にいかによい影響を与えるか強調をし、積極的にすすめていましたが、実際には郊外の住宅地の分譲ではなく貸家の経営でした。

1909年に西宮の駅前に木造平屋の二階建ての貸家を34戸造ったのを皮切りに、阪神沿線の鳴尾や御影にも貸家を建設していきました。
 一方の南海(大阪~和歌山間を運行する私鉄。現在は大阪湾沿いに難波~和歌山間と、難波~高野山間で運行。)では
沿線の住宅開発よりも海浜リゾートの開発が先行したため、明治末期に郊外住宅地と言えるのはせいぜい天王寺にほどちかい地域でした。

小林翁の開発した池田市室町の住宅地は碁盤の目のような道路に百坪単位の家が200戸規則正しく配置されるという、当時には大変斬新な分譲住宅だったのです。(ちなみに、現在も百坪単位の家が並び、古の面影を残します。)また、現在では当たり前の住宅ローンのシステムを初めて取り入れたおかげで200戸がほぼ完売したそうです。

もう一つ、小林翁の斬新かつ戦略がありました。ちょうど、池田城跡のそばには小林翁の住まれたお家があり、翁が収集された茶碗や掛け軸、画(特に関西出身の呉春の画。ちなみに池田は地酒「呉春」が有名です。)などを展示する美術館とマグノリアホールでの音楽会や講演会など、文化の発信拠点の役割もしています。

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