KOJIKI<大和①>
前回から少し時間がたってしまいましたが、今年もコツコツ口語訳を続けていきますのでご贔屓に。
さて、宇陀(うだ)へと進みその後に、さまざまな戦いを経てついに太陽を背にして、勝ち進めました。その後、邇芸速日命が天つ神の御子(神武天皇)の処に参上し「天つ神の御子が天降りされたと聞きましたので、追って まゐくだ あまつしるし参降って来ました」と述べ、天津瑞を献上しました。
天津端(あまつしるし)とは、邇芸速日命が磐船に乗って地の国へお越しの際に天神に授けられた十種類の宝物のことです。
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品物之比礼(くさぐさのもののひれ) です。
ところで、邇芸速日命が登美毘古(長髄彦)の妹、登美夜毘売を娶って うましまぢ
生んだ子が宇麻志麻遅命〔この命は物部連・穂積臣・采女臣の祖〕です。邇芸速日命は神武天皇が天照大神の子孫であると知って、裏切ったのですね。あっさりと皇位継承をしてしまいました。(日本書紀では従順させてことになっていますが・・・)
神武天皇は、邇芸速日命の力も借りながら、反対勢力を抑え、賊を平定して、大和国の畝傍にたどり着き、橿原の宮において天下をおさめることになりました。
古事記内では〈畝火の白檮原宮(かしはらのみや)に坐(いま)して、天の下治(し)らしめき〉と書かれてます。大和平定直後に神武天皇は、皇后とすべき女性を求めました。ふさわしい女性がいると申し出たのは、日向以来の譜代の武臣の大久米命でした。
橿原神宮のほど近くに久米御縣(くめのみあがた)神社あります。
祭神は大来目命。こちらの社伝は他にも道臣命の祖を祀っています。大和平定で活躍した大久米命と、道臣命(みちのおみのみこと)を祀っていることになります。神社では「道臣命は大伴連等が祖」とも書き、古代大和朝廷の軍事を司(つかさど)った大伴氏の祖と紹介しています。
ところで、神武天皇が日向の地を出立したのが45歳。途中で色々とよっていて、大和平定の時には65歳ほど・・・。今更、皇后?お妃??と不思議に感じますよね。あるいは、人生100年時代の先取りか・・・。
日向にはお妃はいなかったのか・・・。次回はそんなところも記したいと思います。
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