KOJIKI<倭建命②>

当代きっての歌舞伎役者、市川猿之助。「古事記」を題材に哲学者、梅原猛が三代目市川猿之助(現 猿翁)のために書き下ろしたスーパー歌舞伎の傑作、『ヤマトタケル』

ヤマトタケルの波瀾に満ちた半生を、壮大な構想で独創的なドラマとして構築した『スーパー歌舞伎 ヤマトタケル』は、昭和61(1986)年に猿之助(現 猿翁)自身の演出によって初演されると同時に、大旋風を巻き起こしました。

古事記の世界からあまたの時を経て現代に蘇る、ヤマトタケルですが、彼の悲劇は父帝の些細な依頼ごとから始まります。

「お前のお兄さんに朝夕の食事の時には必ず顔を出すように諭してやりなさい」

双子の兄の名は大碓命、同じ母から倭建命(幼名、小碓)を含め5人の男の子ばかりの兄弟です。

父帝は殊の外この大碓命、小碓命の双子を可愛がりその証として御子として認めています。それゆえ、朝夕、父帝と同じ席について食事を取るのは恭順をしめす大切なお作法でした。

ところが、兄の大碓命は何が気に入らないのか、姿を見せません。帝が小碓命に命じてから5日間たってもやっぱり大碓命は食事の席に現れないので

「まだ、諭していないのか?」と小碓命に尋ねたところ

「いえ、諭しました。僕、ちゃんと諭したよー」と答えます。

「え、どうやって?」

「朝早くに、兄さんが厠に入ったんだ。僕はその時を待ち構えていて、掴まえたんだよ。それでね、手足を折って菰にくるんで捨てましたー。」

「!!!」・・・(・∀・i)タラー・・・ま、まじか・・・。

どうやら、倭建命は幼き頃から超人的な力を持っていたようです。

これを知った、父帝は「こいつ、めっちゃやばいじゃん」と御子を危険人物とみなしたのでした。そして父帝は小碓命にこのような勅命を下します。

「西の方に、熊曾建(くまそたける)兄弟がいる。この連中が服従しないで本当に困っているんだ。その力で征伐してくれ」

と、熊曾行きの遠征を命じました。熊曾とは、大和朝廷に抵抗した九州南部(鹿児島や熊本の国境あるいはその地を治めていた)の勢力であり、豪族の連合軍の総称です。

 勅命を受けて倭建命はまず、髪を額で結いました。この時、倭建命は16歳。まだ少年です。そして、その姿で、伊勢神宮で天照大神に奉仕する叔母、倭姫命(ヤマトヒメ)の元に足を運びました。そこで頂戴したのは倭姫命のお衣装。そして剣を懐中に抱いて、熊曾征伐の軍旅に出たのです。

倭姫命は、第11代垂仁天皇の第4皇女です。第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命が、宮中より天照大神を託されました54年間奉仕をなさってきました。

 倭姫命はその後を継いで、天皇の命を受けて天照大神の御杖代(神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者)となり、皇大神宮(伊勢神宮内宮)をご創建されました。ご自身は伊勢神宮の別宮に倭姫宮にて大正になって祀られるようになりました。伊勢へお参りなられた方には素通りしている方も多いかもしれませんが。

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お写真は三重県観光連盟公式HPから 内宮の様子

 倭姫命から後、代々の天皇は未婚の皇女を伊勢に遣わして皇大御神に奉仕させられました。このお方を斎王と申しあげるのですが、これは源氏物語の六条御息所のお話でも有名ですよね。

 倭建命は母君ではなく、なぜ、伊勢のおばさまのところに行ったのか・・・。とってもお偉い江戸時代の国学者、本居宣長は「其御威(そのみいきおい)、御霊を借賜はむの御心なりけむかし」と書き記しています。

 天照大神の御杖代(みつえしろ)だった倭姫命から神威を得ようとしたのではないか・・・と、いうことです。国の繁栄と安寧のために、伊勢に行かれたのですね。

さて、元伊勢のについてはこんなお話があります。

第10代崇神天皇はそれまで三輪山麓の皇居内で祀っていた「天照大神」と「倭大国魂神」を、その神威を畏れて宮中から出すことにいたしました。

天照大神を崇神天皇は皇女の豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(かさぬいのむら)(現在の桜井市檜(ひ)原(ばら)神社)で祀らせることとしたのです。ここで33年間祀られていたそうです。

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前回にもご説明した神社です。

熊曾に赴く際に、倭姫命から神威を得た倭建命。ここから彼は連戦につぐ連戦の日々を送ることになります。






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