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KOJIKI<火遠理命 地の國へ>

火遠理命は、綿津見大神より授かった、塩盈珠(しおみつたま)と塩乾珠(しおふるたま)
を手に、また一尋鰐(ひとひろわに)の背に乗って、
もといた海辺の浜まで大波小波をかきわけかきわけ、その日のうちに戻って行きました。
その手柄により一尋鰐(ひとひろわに)は 左比持神(さひもちのかみ)と呼ばれるようになりました。

こうして、ついに山幸彦の火遠理命は
兄の海幸彦に無くした釣り針を返したのです。
返す時には教えられた通り後ろ手で、密かに
『おぼ鉤(ち)、すす鉤(ち)、貧鉤(まじち)、うる鉤(ち)』
と、唱えました。

兄は弟が釣り針を持って帰ったことを驚き、怪しみ、
「この3年間、お前はどこにいっていたのだ。」
さて、この左比持神は鰐を表すと言われています。
わにの尖った鋭い歯から、刀剣を持っている神のことを称するそうです。
ただ、日本には鰐は生息していません。サメの別名とも言われてますが、いずれも鋭い歯を持っていますね。

さて、兄は弟が釣り針を持って帰ったことを驚き、怪しみ、
不信を抱き、さまざまな嫌がらせや、困った振る舞いをしました。
そしてだんだんと貧しくなって、
弟を困らせ、攻め入ろうとしたので、
火遠理命は兄を懲らしめようと塩盈珠(しおみつたま)を取り出して祈りました。

すると突然、大波が押し寄せ
潮が満ちて、海幸彦を取り込み、巻き込んで、
溺れさせてしまいました。
火遠理命は 溺れて手をあげて、
水を飲んで、苦しみ叫び、助けを求めている兄の姿を見て
次に塩乾珠(しおふるたま)を取り出して またたくうちに その潮をひかせ兄を助けました。

この海幸彦が塩に巻き込まれて溺れるときの様々の仕草が
やがて隼人舞として伝えられることになったのです。

隼人舞とは約1300年前に大隅隼人が大和朝廷に屈し、朝廷に仕え、のちに大嘗祭など宮廷で演じたとされる古代芸能です。隼人舞は現代では皇室にゆかりのある宮中の儀式用の風俗歌舞なのです。

ところで、京都の京田辺というところには隼人舞の発祥の地として月読神社に碑があります。月読み?と思い出された方もいらっしゃると思います。

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草間一壽先生の銅版画のポストカードです。天照大神の弟で、素盞嗚命の兄神です。

民俗学者の小野重朗氏曰く、

海の文化圏では、十五夜の竜神の大綱をめぐって、海の国へ帰っていく竜神の儀礼、竜体に農作物を結びつける儀礼、にぎやかな綱引き儀礼等が盛んに行われる。と、月を祀る風習があったとおしゃっています。

もちろん、隼人族の出身地と言われている鹿児島には桜島港に程近いところに「月讀神社」があります。和銅年間(708〜715年)には創設されたと伝わる由緒ある神社です。大正時代の桜島の噴火で一度は溶岩の下に埋没したそうですが

昭和に入り今の位置に祀られたそうです。
こうして山幸彦の火遠理命は
兄を懲らしめて、再び地上の国で暮らし始めました。
そこへ綿津見大神の娘、豊玉毘売が訪ねてきました。

さて、このお話もいよいよ佳境に入って行きます。
とは行っても古事記の上巻の部分ですが・・・。
ここでもう一度、豊玉毘売が登場します。


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