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KOJIKI<大和③>

神武天皇お妃選び。出雲系の比売がいる・・・。

そのいきさつのキーワードは大神大社です。最古の神社と言われている大神神社は奈良盆地に、高さ467メートルの円錐形の三輪山を御神体としています。

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写真は大神大社のHPからです。一の鳥居もかなりの大きさですね。さて、今の拝殿は江戸時代の創建で三輪山が本殿なのです。

山頂は奥津磐座(おきついわくら)で大物主命を祀り、中腹付近の中津磐座(なかつおきくら)は大己貴命、山裾の「辺津磐座(へついわくら)」は少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。ご参拝をされたことのある方は、あー、あそこね!っと、イメージされていると思います。この神々はいずれも今の天皇家とは異なる系統の国津神の神々です。

古代は神体山を磐座(いわくら)・磐境(いわさか)として祭場にしていました。その起源は自然崇拝の対象だった縄文時代にさかのぼります。狩猟採集から水稲耕作に移り変わると稲作を伝えた祖先の霊が天候神、農業神となって三輪山に祀られました。それが大神神社に祀られている大物主命です。

三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘(勢夜多々良比売:セヤタタラヒメ)がとても見目麗しく、大物主命は一目惚れをしました。「自分の妻にしたい!」そう思うと居ても立っても居られなくなり、大物主命は比売が厠(かわや)で用をたしているときに「丹塗りの矢」となって女陰を突きました。

比売はたいそう驚かれ、その矢をとり、床のところに置いたところ、たちまち矢は立派な男の姿に変わりました。これが大物主命。大物主命は、その後に願い通り比売を娶り睦まじく暮らしました。こうして生まれた娘が富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)です。

なんとなく、上賀茂神社のお話にも似ているような・・・。

もとい、この比売を神武天皇の皇后に!と大久米命が具申されたのです。のちに神武天皇の皇后となりました。

この勢夜多々良比売も富登多多良伊須須岐比売の母と娘の名前に共通する「タタラ」もまた、古代タタラ製鉄のタタラと関係があったことを思わせます。タタラ製鉄といえば出雲ですよね・・・。

そしてこの三島溝咋ですが溝咋神社というのが大阪の茨木市にあります。こちらが茨木市の観光案内からのお写真

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御祭神は勢夜多々良比売も富登多多良伊須須岐比売の母と娘です。

ここから少し、語学のお話。

あくまでも推測の域ですが・・・。ホトは女陰、タタラは古代の製鉄法の名前です。ヨーロッパの人々は、侵入して来たモンゴル人を「タルタル」と呼び、ロシア人は彼らを「タタール」と呼びました。

その言葉は猛火を意味する「タトル」で、これが「タタラ」の語源だといわれていたと記憶しています。(って、いうか、今その講義の大学ノート絶賛参照中)

その言葉は猛火を意味する「タトル」で、これが「タタラ」の語源だといわれています。朝鮮半島では紀元前4~3世紀頃から鉄器使用が始まり、日本へは1~3世紀頃といわれています。(これは、佐野史郎さんの講話からの知識。)

日本では、紀元200年頃の溶鉱炉跡が広島の小丸遺跡で見つかり、三輪山近くの纏向遺跡でもたたら製鉄跡が発見されています。そういえば、大神大社からの山の辺の道通りには、月山日本刀鍛錬道場記念館がありますね。

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物部氏の祖神邇芸速日命(ニギハヤヒ)が天磐船に乗って天降った時にお伴した5人の中に鍛治の神、天津麻良(アマツマラ)がいました。

天照大神が天岩戸に隠れた時に岩戸の隙間に差し出した鏡が八咫の鏡です。

その八咫の鏡を作ったのは作鏡連(かがみづくりのむらじ)の祖神の石凝姥命(イシコリドメ)と鍛冶職人の天津麻良(アマツマラ)でした。

石凝姥命(イシコリドメ)の姥(ドメ)は別な伝では戸辺(トベ)になっているので女性の尊称だということがわかります。

鍛冶屋に信仰される金屋子神(カナヤゴ)は女神です。タタラの神は女性だったのでは・・・という言葉からの推測でした。次回はきちんとお話を戻します。



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