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KOJIKI<倭建命⑥>

倭姫命から 天叢雲剣をあづかった倭建命は、尾張国に入り国神の館に入りました。そこの館の比売、美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚をしたいと思い、結婚の約束をしたまま東方に赴きます。

倭建命は東国制定の暁には美夜受比売と結婚しようと思っていたのでしょう。

東国に進行し、荒ぶる神々を次々に打ち取りながら、相模国までくると

そこの国造が、「この野の中に大きな沼があります。その中にとても荒荒しい神が住んでいます」

と、いうので、倭建命がその神を見たいと草を分けて沼に入ったところ、これが国造の計略で四方から火をかけられました。

謀られたか!

倭建命は倭姫命からもらった袋の口を開けると、中には火打ち石が入っていました。

そうだ!

まず、天叢雲剣で、草をなぎ払い、火打石でその草で火をつけて、火の勢いを反対側に退け、野原を向け出しました。もちろん、国造館を全て討ち倒し、焼き払ってしましました。

この天叢雲剣が「草薙剣」と呼ばれるようになったのはこの時からだと、言われています。

また、この時に焼き払った野原は焼津。今の静岡県焼津市です。そしてこの地には倭建命を祀った焼津神社があります。

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写真は焼津神社のHPからです。

また、同じ静岡県静岡市には倭建命が草なぎの剣で草をなぎはらい、難を逃れたと する、草薙神社があります。

倭建命はその後も東征を続けまます。上総国に行く途中に海峡の神様が荒波の嵐を起こしたため、行く手を阻まれてしまいました。

この東征にずっと同行をしていた后の弟橘比売命が、

「倭建命さま、どうか立派に役目を果たし、大倭の地にお帰りくださいませ」と言い残し、みずから海に入って荒波をしずめます。

最愛の妻の命と引き換えに、倭建命は上総国に上陸することができたのでした。

川崎市にある橘樹神社は流れ着いた弟橘比売命の着物を祀ったとされています。

また、千葉の袖ヶ浦は、弟橘比売命の袖が流れついたというところからついた地名といの言い伝えがあり、神奈川県、千葉県にある吾妻神社という名の神社はどれも弟橘比売命の袖が流れ着いた地に建てられたとされています。

入水の差に、弟橘比売命は、美しい別れの歌を歌います。

「さねさし 相模(さがむ)の小野(おの)に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」

この歌は、敵の謀(はかりごと)に会って草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得た焼津での倭建命は優しい気遣いへの感謝の意を表した歌と解されています。

倭建命を助けるために人身御供となった弟橘比売命。

この歌は上皇后様にとっても深い悲しみを感じたものとしてこちらの本に収められています。

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『橋をかける』美智子(上皇后陛下)著・文春文庫出版 画像はAmazonから





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