ノダ屋があった頃

通っていた小学校は、自宅から徒歩5分の公立小。学校のそばには文房具屋と、雑貨屋で駄菓子も扱っている店とがあり、子どもが自分たちだけで買い物に行くのはこの2軒だった。

《ノダ屋》というのは雑貨屋のほうの呼び名である。ノダ商店が正式な店名。周りの大人も子どもも皆《ノダ屋》でつうじた。小柄で愛想の好いおばちゃんが切り盛りしている小さなお店。

店頭にはガチャガチャ(当時はガチャポンではなく、ガチャガチャ)が3~4台、お店の外に張り出した陳列台には駄菓子。
モロッコヨーグル、きな粉棒、プロ野球チップス、マルカワのガム、すもも、あんず棒、水風船に水鉄砲、ケムリの出る紙!

住んでいた街はベッドタウンで、オイルプラント関連の会社、関西に本社がある塗料メーカー、航空会社の寮などがあり、そこにお勤めの、所謂転勤族の子たちと、戦前から住んでいる家庭の子たちが同じ学校にいた。
買い食いについても家庭によっての考えが色々あり、遊びに行くときも
《この子ん家でノダ屋に行こうって云っちゃダメだ》とか、
《この子はお菓子買っていい?って聞くとノダさんとこねっておやつ代渡される》とか様々。でも皆いちどは買い食いしていたようにおもう。
私は大叔母の家がノダさんの近所にあり、昔は商売をしていた祖母も顔見知りであった事からノダ屋通いを禁止されてはいなかった。
禁止されてはいなかったけれど、自身はあまり駄菓子を買った覚えがない。小学校時代の私はひ弱で不登校ぎみの内弁慶だったので、学校が終わってからもクラスメイトに会うなんて勘弁して欲しかった…とくに男子。

小学校中学年くらいまでは皆ケダモノである(断言)教室は《動物園のふれあいコーナー》であった。
ヤギも小猿もハムスターも白色レグホンもいっしょくた。昭和の頃も定義こそされないが、スクールカーストはしっかりあった。スポーツが得意な者、学力がある者、面白いことを躊躇いなく云う者に票があつまる。夕暮れ前のノダ屋の店先には、身体がデカくてふざけてて乱暴な男子の上位集団が、いつもいた。
ガキども(敢えて。この表記がぴったりだったし、当時は活発過ぎる子を大人はこう呼んでた)は自転車を雑に停め、ガチャガチャ本体を揺すったりしていた。

ある時から、ノダ屋の店番をする女性がふえた。おばちゃんと同じくらいか少し若いかの、大柄で声の低い、あまり愛想がなくて口数の少ない人だ。動作もどことなくぎこちない。
子どもは残酷である。ガキどもは直ぐにこの人にあだ名を付け、からかうようになった。
《ヨーカイババア!》店先で怒鳴って逃げる、注意されてる横でわざとガチャガチャを揺さぶる。教室ではモノマネをし、失礼なあだ名を定着させる。《なーにやってんのー、あんたー》《待ちなさいよーあんたー》
幾分棒読みぎみに、声を低くして云う。ノダ屋に行かない子たちにも、《あそこにはヨーカイババアがいる》と広まった。

祖母にこの人のことを訊ねてみた。この女性はおばちゃんの妹(確かご主人の妹、義妹)で、病気で倒れてから身体が不自由になり、一緒に暮らすことになったのだという。
当時は判らなかったけれど、脳梗塞というようなニュアンスで話していたようにおもう。気の毒だ、と云っていた。

暫くしてガキどものブームは去った。確か堪りかねたおばちゃんから学校に苦情が来たという話だったか(噂レベル)ガキどもは個別に注意を受けたよう。

学年も上がってからは、あまりノダ屋をのぞく事もなくなり、数年して弟妹が出来て頻繁に通うようになった頃には、もうその人はいなかった。

(商店名、女性のあだ名は実際とは変えてあります)

★noteに長い文章を投稿するのは初めてです。(おもったよりも長い!)最後まで読んでいただいた皆さま、この機会を下さった拝啓 あんこぼーろ様にお礼申し上げます。

ありがとうございました。

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