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相手の気持を配慮する倫理の構築

相手の気持を配慮するて相手の考えることは分からない。だが、相手を変えること、支えることに自分がどれだけ関与出来るかで発言内容が変わるとすると、判断が自分の側に戻ってくるか。しかし、自分の資源(時間、金)が限られるとき、相手の人生に責任を持つことばかり考えて関係を持てない。

少しの資源の持ち出しで相手のことを考えるのは、相手のことを知ろうとすることでないかと結論も付けたが

ま、それも相手が殴ってこないこと前提で努力目標で、皆ができることでもない。少しの資源(関わる方法)でより良くするというマナーとは何だろう?


と、相手のことを考えて××してはいけないというのは、禁止である。破ったら罰が来るのか?で、自分が自由にしたいから相手の自由を認めるというのも、自分にコントロール出来ない不快な状況に耐えることだ。自分で決めたことでないのに不快な状況が降ってくるのはどちらも同じ。

どちらを選ぶか。つか、この選択を選べばこの不快な状況になる、計算が明確にたつのは前者の方でもあるか。破られる前提を皆が共有するなら、つか、道徳は努力義務で、倫理は正義のとき、正義を犯す自由をどれだけ認めるかの論理の構築もしてないと息苦しいか。

てか、フリーライダーて少数なら見逃してもいいけど大多数になったら規制のルールがかかる。で、ルール破りを規制する根拠も構えてないとの誰も読まないルール集。不快だから許さないが認められない社会とはなんだろうか。どちらかと言うと。人間が楽しく生きるのが前提でなく、ルールが先にくる。ルールて、皆との調停か?アメリカは何をしでかすか分からないからルールがしっかりする法定社会というのは俗耳(ぞくじ)だが。

まあ、アメリカは自由で法律の裏を最初はかくことが可能で、怪しげな被害も出る。フランスは住みにくいけど生きやすいの文脈か?それに比べてガッチガッチに規制して、騙されないけど社会の活性がない日本か(俗耳)です。

日本て、倫理がきついかな?とは思った?一つのことに集中してツッコミが嫌で軌道修正ができない(第二次世界大戦を考えつつ大学政策の誤り、いつ止めるんやろ)。集中していることが正しい期間ならばあっちゅーまに成長もできるメリットもある?

で、そこでは、政府に反対する野党の側は思想のための反対、反対のための反対で根拠が説得力がない。論理が成立する社会とはなんぞや?理解できない他人を理解できないけどふわっと包み込む?泥のような日本性?

大切な人だから理解できない部分も認めるとき、大切な人でなかったら論理がないと理解し合える糸口がない。いつ殴られるかの心配をするマナーの構築が出来てないか(と大きすぎ根拠が取れない話だが)。

他人を傷つけないことを一義とすると、理解できない他人の存在を認めると、知っている人に資源を割きすぎて、知らない他人がどうでも良くなるか?知らない他人に対し、少しの負担で関係を持つお作法の構築は、橋本治が提出した理屈にあっただろうか。

今の世で報われると考えたらおかしくなるから来世で報われる。カナブンになって壁にぶつかって死ぬこと。

とかって、今月はなんかノルマがあって逃避でノート更新してますが、何かモゾモゾするので、途中で切ります。アディオス!

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