『アデリー・ランド』の事

よく考えてみたら、そもそものきっかけは藤原だった。当時、岡山のJAMというクラブでエスカレーター(現BIG LOVE)の仲さんとかをゲストに呼んでイベントをやってた奴。人間嫌いの嫁も気に入ってた数少ない人間で、今まで会った中で最もふざけた人間、藤原。

藤原は何故か僕の事を気に入ってくれてたらしく、何度かイベントのゲストに何度か呼ばれた。そして、当時はまだハーフビーではなく、「京都のレコード屋のZESTの店員』でしかなかった高橋君がゲストとして呼ばれた時も誘われた。客は10人もいなかったはずだ。そして、当時の僕はDJとしての才能に溢れてたので、当然高橋君にも気に入られた。

で、その後高橋君から「今度知り合いがセカンドロイヤルってレーベルを始めてコンピ作るんだけど、森野君も参加しない?」と誘われた。俺、お前に俺の曲とか聴かせた事ないんだけど?と思いつつも、オッケ〜!と答えた。

で当時のDJの相棒、おみっこ(今もやってるのか知らないけど、ノエル&ギャラガーのノエル)と曲を作った。ハンサムボーイ・テクニークというアーティスト名は、僕が考えた、おみっこと一緒にしてたイベント名から付けた。おみっこのDJは、その後小西さんが気にいるのも納得できるくらい当時から最高だったけど、作曲に対する姿勢が微妙に食い違ったので、その後の1st.シングル曲の「シーズン・オブ・ヤング・ムース」を一緒に作った後は、僕1人で曲をつくっていった。

ちなみに、「ムース」というのは、おみっこと僕が共通で好きだったDJの名前。ヒップホップのDJの大会で世界トップクラスなのにプレイする曲がめちゃ変なDJで、2人で爆笑しながらビデオ観たりした。

そして1st.アルバム『アデリー・ランド』を作った。サンプラーとシーケンサーという機材を使って。どちらも制作画面はモノクロで、画面の大きさは5センチ×10センチくらい。シーケンサーは音の位置を数字で動かして自動演奏させる機械なので、常に計算機を片手に持って、床に座って全曲つくった。

タイトルは、当時なんかペンギンが大好きだったので付けた。ペンギンに関する本をめちゃ読んでたのです。フランスの探検家が発見し、妻の名前からアデリーと名付けた、南極のアデリー・ランド。人が歩くと、地面に埋まった大量のアデリー・ペンギン達の死体を踏んでしまい、地面が血で赤く染まったというアデリーランド。

ちなみに、日本の水族館とかにいるペンギンは、だいたいフンボルト・ペンギンだから。アデリー・ペンギンは、もっと可愛いから(Suicaのやつですね)。オスが卵を温めるけど、一回だけメスと交代するから。何でだよ。あと、繁殖期の天敵めちゃ多くてめちゃ戦うから。

ジャケットは自分で描いた。とにかく顔を描きまくった。ジャケットのラフを高橋君に見せた時「お前はこんな才能もあるんか!」と驚いてた。イラスト描いたのとか初めてでしたけど。でもペンにはこだわった。高松の商店街の文房具屋にしか売ってなかったペンが一番描きやすかった。

全くどうでも良いけど、CDのジャケのインナーに「DUB」と書かれたTシャツを着てる力士を描いてるんですけど、最近2020年版がちょっと話題になってた、昔のドラマの『愛してると言ってくれ』で、耳の聞こえない豊川悦司に対して、その恋人の常盤貴子が「あなたとは音楽も一緒に楽しめないからつまんない!」みたいなめちゃくちゃ酷い事を言うのですが、その時に常盤貴子の着てたのが「DUB」と大きくプリントされたTシャツで、それがめちゃめちゃ印象に残ってて好きなシーンなのでそのTシャツを引用して描きました。ってこれは本当にどうでも良い話ですね。ちなみに描いたその力士の名前は「ダブの海」です。

そして、アルバムをリリースした後、友達から「handsomeboy techniqueで検索したら、よくわかんない言葉のサイトめっちゃ出てくるんだけど!」と言われた。どれもスウェーデン語だった。その数ヶ月後、スウェーデンのイベンターから依頼が来て、スウェーデン4ヶ所でDJする事になった。ギャラは確か60万円程で、さらに、同行者4人全員の飛行機代も出してくれた。すごすぎ。プロモーション費ゼロでリリースして、SNSも無い時代に、床に座って作ったアルバムなのに。何でだよ。

思い出続行Aチーム。スウェーデン4ヶ所のうちのウメオのフェスでは、なぜかトリだった。多分客は1000人くらいいた。自分の出番となりDJブースに入った時、ヘッドホンを楽屋に忘れてる事に気づいて、高橋君がすぐにダッシュで取りに行ってくれた。

その出演前、デヴィッド・ボウイにもインタビューしたことがあるというスウェーデンの音楽ジャーナリストに、国営放送の番組で取材を受けた。僕ら以外誰もいない映画館で。「アルバムでは、ビートルズとかアバとかサンプリングしてますよね?」と言われ「してないけど…」と言ったのに信用して貰えなかった。「ヨシタカはサンプリングのネタバレに対してデリケートなんだな」とか言ってた。本当にしてねーし。

レコード屋とか蚤の市で、中古のレコードも山ほど買った。60年代とか70年代の、全く知らないスウェーデンのアーティストのレコードを。帰って聴いたら全部ハズレだった。同行した、当時ジェットセット京都店の店長でお友達のコサオは、おそらく日本にはほぼ入って来て無かったであろう90年代くらいのハウスっぽい12インチシングルを「1枚5円だから、良くなかったら捨てれば良いし」と言いながら何百枚も買ってて、帰って聴いたら全部ユーロビートで、捨てたそうだ。

そんなスウェーデン・ツアーに向かう飛行機の中で、同行した高橋君と「スウェーデンといえばカジヒデキだし、もしかしたら本人いるんじゃない?」と冗談で言ってたら、本当にいた。ツアー2ヶ所めマルメのクラブで、俺のかけてるマイブラの"Soon"でめちゃフロアで踊ってた。DJの後に挨拶したら「マルメでレコーディングしてたらスウェーデン人のメンバーに『今日ハンサムボーイ・テクニークが来てるから行こうぜ』って誘われて」と言ってた。これがカジ君との初対面だ。

何年か後にカジ君のマネージャーの実家の布団の中から、早朝、マネージャーのお母さんに「カジ君もっとシャコ食べなさい!」と怒られてるカジヒデキの姿を見るとは思いませんでした。しかもその後、一緒に曲を作る事になるとは。

1st.アルバムの思い出はこんなとこでしょうか。

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