ははの事

珍しく昼寝をしたら、珍しく母親が夢に出てきた。夢の中での彼女は若く、穏やかな表情で僕に語りかけていた。語っていた内容は覚えてないけど、久々に母親の事を思い出した。ついでに、自分が幼い頃に誘拐された事実がある事も思い出した。母親は10年程前に死んだ。首吊り自殺だった。

夢を見た今日は偶然にも母親の命日なので、彼女の事を忘れない為にも書き残しておこうと思う。というのは嘘で、命日は「ポッキーの日」だし、たまたま夢で思い出したから書いてるだけだ。

自殺した理由は少し複雑だけど、簡単に言えば、死ぬ一週間程前に僕に掛けてきた電話の内容と遺書の内容から考えて「彼氏にフラれたから」だ。その事実を知った時、僕は、そんな母親のアホな血を自分が見事に受け継いでいる事を実感して少し嬉しくなり、少し共感し、初めて少し尊敬さえした。そして、その事をもう本人に伝えられない事に気付いて少し悲しくなった。

死の知らせを受けた時も、葬式中も泣く事は無かった。でも、通夜で一人になって朝まで線香の番をしている時、アホそうな笑顔で写ってる遺影を見ていたら、なんだかちょっと泣いてしまった。

泣いていたら、葬儀場に向かう時に車を運転しながら「お前には父親がいないし、母親もいなくなった。でも安心しろ。これからは俺がお前の母親代わりになってやるからな!」と言ってくれた叔父が、後ろから無言で毛布を掛けてくれた。「なんで父親じゃなくて母親なんだよ!」と思った車内での事を思い出して、笑ってしまった。

僕が生まれ彼女が死ぬまで、会話した時間はトータルで10時間にも及ばないのではないだろうか。母親の事が嫌いだったから、とかではなく、単純に会う機会が少なかったから。なので、あまり「母親」という気がせず、照れ臭くて「お母さん」的な呼び方をした事は一度も無かった。酷い息子だ。小3までは「ママ」と呼んでいたけど。

以下は、僕が知っている限りの母と父と僕のストーリー。何年か前に、20年振りに会った父から(真昼間にコンビニの前に座って2人で何本もビールを飲みながら)聞いた新事実も含めて。その新事実を知り、僕は母の事をさらに好きになった。

父と母が出会ったきっかけは所謂逆ナン。ていうかほぼストーカー。母は、当時父が経営していたレストランに毎日の様に通い、父を口説き続けていたそうだ。その後、まんまと交際する事になり、結婚。

そして僕を出産した数年後、父の出張中に母は浮気をし、僕を捨て、浮気相手と駆け落ち。父は母を探し出し、当然離婚して、当然親権は父親に。

その数年後、僕を手放したく無かった母は、僕を誘拐した。ここまで読んで、「なんてひどい母親なんだ。わがまますぎるだろ」と思った人もいると思うし、まあ僕もそう思う。でも、初めてこの事を父から聞いた時は、「アホすぎ!」と言って笑ってしまったし、父も「やばいやろ」と笑っていた。

誘拐されて数日後、母と浮気相手が暮らしていた家を突き止めた父はそこへ乗り込み、僕を奪還。そして僕は、小2まで父の元で暮らした。父とは仕事の関係で月に1度位しか会わなかったけど、同居している祖母と叔母に愛されて育った。

ここからしばらく少し話はずれるけど、祖母も叔母も働いていたので当時僕は保育園に行っていた。とても愛されていた実感はある。でも当時4、5歳だった僕は、1人で電車で通園していた。具体的に言うと、大阪人にしか分からないだろうけど、宝塚線で池田駅から梅田駅まで通っていた。保育とは何なのか。

今初めて気付いたけど、僕が今でも当時の住所(大阪府池田市八塚3丁目以下略)と電話番号(072761以下略)を覚えてるのは、1人通園してる僕がもし迷子になっても(誘拐されても)ちゃんと家に帰れるように、と思って、祖母と叔母が僕にしつこく覚えさせた結果に違いない。

そして、さらに余談。当時のエピソードをひとつ思い出した。保育園児の僕は、父に連れられてキャバクラに行った事がある。テーブルには綺麗な女の人がいっぱいいて、僕は「かわいー!」とちやほやされてた。途中、トイレに行きたくなったけど、「おんなのひとたちのまえでおしっこにいくのはかっこわるい!」と思って、限界まで我慢していた。結局勇気を振り絞ってトイレに行き、その後1人の女の人と外出した。その女の人は、僕をおもちゃ屋に連れて行ってくれて、僕が欲しがった超合金のロボを買ってくれた。父と再会した時にその記憶を伝えたら「あー!それ当時の彼女やー!」と懐かしがっていた。

超閑話休題。その後、僕が小2の時に父は事業に失敗して数千万の借金を抱えた。「このままではヤクザみたいな借金取りが毎日家にやって来るはず…この子だけは守らなければ!」と思った叔母は、独断で母に連絡し、その結果、母が僕を引き取る事になり、母の実家の岡山へ移住する事に。

岡山へ向かう時の新大阪駅の改札前での事は鮮明に覚えている。父親との最後の別れに号泣してる僕に対して父が言った言葉は「お前大丈夫か?『プレイボーイ』買ったろか?」だった。ずっと謎だったので再会した時に尋ねたけど、本人は覚えてなかった。しかし確かにそう言った。

そして小2の夏休み明け、僕は、毎日梅田を闊歩していた大阪のプチ・シティボーイから、家から海と山が見える岡山のカントリー・ボーイになった。

母は僕を育てるため、「岡山は給料が安いから」と、大阪で一人暮らしをしながら働き、月に1度位岡山に帰って来てた。小4の時に一度だけその大阪のマンションを訪れて泊まった事がある。風呂上がりで体を拭いている全裸の僕に対して「あんた包茎ちゃう?今のうちに手術しとく?」と質問してきた。もちろん僕は「包茎」という言葉も知らなかったし、手術とか怖いし、断った。その後、母のその好意を受け取らなかった事を後悔した事もありますが。

ここからは母の本領発揮エピソード。僕が高校に進学した時、母は岡山の実家に戻り、自分でハンバーガー屋や居酒屋を開店。その営業が終わった後は朝までスナックで働き、帰宅後は、僕は不登校だったにも関わらず「学校行けや」とばかりに毎日弁当を作り、高校を卒業するまで僕を育てくれたのです。ちなみに卒業証書は、帰宅中に自動販売機横のゴミ箱に捨てた。

そして時は過ぎ、僕は大人に。ある日、後の死の原因となる彼氏と当時同棲していた母から電話がかかってきて「パソコン買ったんだけど、お前の名前を検索してみたら海外でも人気とかハンサムボーイなんとかってめっちゃ出てくるんだけど、これってお前の事?」と聞かれた。

音楽活動している事はなんとなく言ってなかったので、「あーそれ俺」と答えたら、爆笑してた。なんだったのだろうあの爆笑は。その後会った時、僕の2ndアルバムとかインタビューが載ってる雑誌をあげたら喜んでたな。

で、その後自殺。早朝に叔母から連絡があり、京都から岡山へ向かい、母が住んでいたマンションに行くと、叔母と警察官が話をしていた。そこに勿論死体は無かったけど、太く真っ白なロープが床に置いてあった。その部屋は不要な物は処分されており、マンションの契約書や保険等の書類などもテーブルに用意され、死後に迷惑を掛けない配慮が最大限なされていた。おそらく何日も前に死を決意していたのだろう。

まあ、浮気して我が子を誘拐したりとか、頭おかしい人だとは思う。でも、最初の方に言ったように、僕はそんな母が好きだし、尊敬もしている。母の事を一言で表すなら「可哀想で可愛い人」だろうか。不幸な人生だったのかもしれない。でも、僕の記憶の中の彼女は、笑っている。小学生の僕に「今は19世紀なんだよ」とか嘘ばかり教えてくれてた時の笑顔だ。

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