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「使うもの」が一緒なだけ

最近、周囲の民間資格が気になっている。
民間資格を見るときに、注目するのは
色々な知見に基づいた知識が得られるかどうか。

かなり多くの民間資格が
狭い分野の協会、または、個人が自分たちの知識や知見を理解してくれる人を認定するものになっていると感じる。
語弊があるかもしれないが、新興宗教っぽいと思ってしまう。

この人のこの考え方を信じる、だから、この資格を取る。
まあ、別にいいと思う。
その協会や個人の知識、知見も価値があるだろうと思う。

でも、なぜ「資格」という形をとるのか。
資格は、取得した人は「〇〇資格取得しました」と言う。
宣伝効果、ありますね。

さて、その資格取得のために使う時間や金額はどうでしょうか。
結構高額だったりします。時間はまちまちですね。
安いのはあまり見たことがないのですが、時間は簡単にとらせるものから、ある程度の時間はかかるものまで千差万別です。
資格の価値…どこにあるのでしょうね。
資格の認定者の金儲けの道具にはなりたくないなと思は考える。

この金額や時間の投資が「資格を名乗る」ためのものになってしまっていないか。
ここは自分としては気を付けたいところ。

先日、絵本の民間資格がたくさんあるというツイートを見かけた。
かくいう私の知り合いも、自分で絵本の民間資格を立ち上げた。
どんなことを教えてくれるのか、私はきいていないけれど、最初はなんだかもやもやとした。

多分、自分が普段みんなに届けたいと思っている、本を、絵本を、使っているからだと思う。
やっぱり金儲けの道具にしているような気がするのだ。
なんだかセミナーとか、なんだかサロンとかそういう類でお金を巻き上げて、さらに、その資格を持った人が、お金のある人にその機会を提供するようなループを想像して。

でも、それは、その人が自分の能力をマネタイズできているだけで、私ができていないだけで、ただのやっかみでしかないのかもしれない。
その人にたくさん人が集まるのが羨ましいのかもしれない。
信じられてていいなと思っているかもしれない。
(明確に分析はしないが、まあ、こんなもんだよね。嫉妬心みたいな)

やっかんでいる暇があったら自分でやればいい。
でも、私はやらない。
そういうのじゃないから。私は、それはなんか違うから。
そこを信じてやっていけばいい。
「使うもの」が一緒なだけ。
見ているものは、それぞれでいい。

本を信仰しているのは、結局私の方なんだ。
敬愛しているものを汚されるように感じて。

わたしの独りよがりはここまで。
ひとりでまっすぐに自分の道を作っていけばいい。
みんなに会いに行こう。



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