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ばあちゃんち

バスタブに浮かぶバブをお湯に沈めては出し、沈めては出しを繰り返している。いつものように、この家で数時間過ごすだけで整っていく自分を確認しつつ、文章に残さねば、とスマホを握った。義理の祖父母の家で過ごす、初めての年始。

祖父母の暮らす家は名古屋の真ん中に近いところにある。二階建ての一軒家、それぞれの部屋がとても丁度良い大きさに丁度よすぎる家具たちが並び、いつ来ても埃気がなく整えられている。きてすぐ、荷物をあげる二階の部屋が私たちがいつも眠る部屋。そこには布団とシーツと枕、ふかふかのタオルが二組ずつ、真ん中に座っている。この景色がまず最初に、おかえりと声をかけてくれる。

私はとにかくこの家が好きだ。じいばあのことが大好きなのは言うまでもないが、彼ら夫婦が営んできた暮らしの結晶のように見える、この家が堪らなく好きだ。全ての部屋の移動距離が何処か懐かしい。リビングも、トイレも、台所も、茶器も器も、クッションも。煌びやかに見せびらすようなものではないのに、品がある上質なもの。私から見ると物の量が完璧なのだ。多すぎず少なすぎず古いものも新しいものも大切にされていて綺麗で、しゃべりだしそうなくらい生き生きとしている。選び抜かれた家具たちは、「選び抜かれたこだわりの」感が完全に無く、当たり前に自然に存在している。掃除用具は各箇所に一組ずつ、これで事足りる、と自信をもっているかのように清楚に佇んでいる。中でもお風呂が一番、好きだ。


初めてこの家でお風呂に入った時、シャワーヘッドと床のあしざわりに驚きのあまり声が出た。今はなき(あるけど入ることの許されない)小中高と暮らしたアパートのものと、そっくりそのまま同じなのである。人の家にお邪魔する機会の多い旅暮らしだが、この家と自分のかつての家以外で、同じお風呂に出会ったことはない。元実家との違いと言えばシャンプーリンスがひと瓶ずつとせっけんがひとつ、掃除用具がここも各ひとつずつあること。(我が家は思春期の女ばかりでシャンプーやカミソリやスキンケア用品がごったがえしていた)。相変わらず定まり、飾り気がなくさり気なくそこにある。細いシャワーヘッドから出る柔らかい水と、それが身体を流れて足元へ来た時の足裏の感覚が、玉名に暮らした自分へと戻していく。あがった先の洗面台には綺麗な一輪挿しに季節の実が挿してある。洗面台に花があることの、なんと豊かなことか。

帰省といえば田舎で、空気が美味しいのも帰ってきたと思えるのも田舎でのどかな地域にしか存在しないと決めつけていた自分にこの状況を説明すれば大層驚くだろう。1本出れば地下鉄に車線だらけの大通りで生き返るように気持ちよく息を吸いこむ。名古屋の便利な地で鉢植えを楽しみ、散歩をし、淡々と生活をする夫婦にとても憧れ、家族になろうとしている。大袈裟でなく、人生美学とか哲学とかと結びつけて見蕩れてしまうくらいに好きなこの家に、私はいつでも帰って来れる。不思議なことだ。


さて、人は必ずいつか死ぬ。それが怖いと思う大きな要因はタイミングが分からないことだと思う。不意であればあるほど悲しいのかは分からない。余命が分かっていても同じくらい地獄のように悲しい気がする。

それでも覚悟をしてないよりしている方がマシだと、幼い頃から何となく思ってきた。明日地震で、火事で、病気で、事故で、自分もそばにいる人も死ぬかもしれない可能性を、保険のように常に頭に浮かばせている。その癖が去年一段と強くなった気がした。普段の顔に悲壮感が滲んでなければいいな、と思いながら笑う。刹那主義とでも浪漫チストとでもなんとでも言ってくれ。そういう日々だ。

十年間一番長く暮らした家はもう戻れぬ場所となった。その前の家を出る時は次の家に移れる喜びが勝っていたのに寂しさに嬉しさが勝てる移動はあれ以来起こらない。

しかし私は今の実家(最初は熊本とはいえ市内の都会で7階に自分の家があると言われても全くわからなかった)のことも気に入っている。母の弛まぬ趣味嗜好のおかげで昔の家と変わらず可愛らしい家に仕上がっており、古さに文句を言う姉妹たちの言いぶりにも何だかんだの愛着を感じる。今自分が暮らすみえのシェアハウス、ものが多くて多すぎて、片付けても片付けても片付かない家も気に入っている。(家の持つ色から自分たちのまだまだな部分を感じることも含めてだ。)そしていつか、いつかこの祖父母の家のような家に、というよりは祖父母の暮らしぶりのような暮らしに辿り着きたいなと思っている。

いつかここがからっぽになってしまったら、その時は今日行った喫茶店はどうなっているだろうか。熊本に浮かぶ島の祖父母の大きな家たちはどうなるだろうか。何時でも帰れると思っていた石川と福井の故郷のような家は地震で崩れてないだろうか。生きていくだけで恐怖に近い不安ばかりで下がりそうになる顔をあげる。大好きな祖母の背中の傍で、名古屋飯の匂いがする。

いつかこんな暮らしをしよう、と、もう一度思う。
数、重さ、色、食べ物、景色。自分たちが、自分たちの手でゆっくり見つけていく自信に囲まれた暮らし。誰かが来た時に、気持ちが丸ごと洗われるように気分が良くなる生活空間。

同じものは何一つなくとも。いや、ひとつかふたつくらいはそっくり真似させてほしい。少しの物と多くの思い出に囲まれて暮らそう。与えられた部屋の片隅にぐちゃぐちゃと置かれた私たち2人の荷物を眺めながら、まだまだ環境に文句を言えたもんじゃないなと、そう思う。

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