60| 座の視座
お茶、お茶席には、すわる、ということがあります。
わたしにとっての『お茶』は、その多くを、お茶室などにすわることで、ゆっくりと、育まれてきました。
市の中心部に建つマンションの、13階にあるお稽古場。
客畳より点前座をのぞみ、通り抜ける向こう側に、大きなが窓があります。
毎週土曜日、月に3日の約半日。多いときにはほぼ終日。
そこで、刻々と移り変わる景色を、眺めていました。
手前には点前をするご亭主と、右方、貴人畳の位置には先生が座っておられます。すわり、釜から立ち上る湯気などみていると、直に、もしくは徐々に感覚が変化して、亭主の所作も、先生の声も、炭の静かにはぜ、湯のたぎる音も、『模様』へと入てゆきます。
自分を含む、点在する中心点から、あちこち破れ、開きはじめ、細やかな粒子の流れ、密度の高い空間のようなものが生まれている。
それらに優しく、やさしく受けとられている感覚は、言葉をこえる心地のよさと、生き生き、むくむくと甦る、瑞々しさがあります。
多面多様の表現のある中、わたしのすわるは、底を流れる自然の領域にひらき、触れつづけることで、いまに生まれる源を、新鮮に発見し続けてゆくこと、、とも、いえるかもしれません。
すわる、は、座禅にも通じますが、お茶には、すわることから、道具をとり、扱い、持ち運び、使う(用いる)ことや、立つ、歩く、などの展開があります。
また、主体と客体がひとつとして在る。
相の手(手と手の会い、合い、相う)の存在、など。
以前、「10|心の葉と茶 - 宗葉先生 -」でも少しだけ触れたことがありますが、それらの構造が、『お茶、茶の湯』が『踊り』や『剣』の本質と重なる…と、感じるところ。
その中でも『お茶』は、時代を超えても、生活、暮らしから離れていない側面を持ち続けている、ということもあるでしょうか。
「在る」のすべてが、感覚を通じ、巧拙や美醜などをこえたカタチ等具体の中にも、自ずからあらわれるのが、お茶のよろこびでもあり、途方もない面白さでもあるぁ・・・と、感じます。
今回あらためて「すわる」をとりあげる際、以前拝読して「なるほど・・・」と、印象に残っていた、表千家十四代お家元の著された『茶の湯随想』三章稽古百景にある、「“すわる”ということ」「立礼と新しい茶の湯」を再読しました。以下に引用を。
すわる、は、私たちの日々の全編に、そっと、土脈のように流れ続けています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?