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過去の作品を見直してみる

5年程前、フェルデナンド・ホドラーの「昼」の習作をモチーフにダンスを創作したことがある。振付の構造は至ってシンプルだけど、振付そのものが一つ一つ練りに練られたものかと言われるとそうではない。

だから私は、俗に言う振付家とは違うのかもしれない。一番重要な、根幹となるフォルムが決まれば、(多分ここに一番時間が掛かる)あとはそれを繰り返すか行き来するか。既に創られた何かを見せられるのが嫌いで、肉体から時折溢れ出る感情や、踊りを通して見え隠れする、観客自身の物語に触れてみたい。そういう事に、これまで挑戦してきたように思う。

2015年に、私は一人孤独に作品を創ることを初めて手放し、音楽家、美術家、制作、振付家の4名で「枠」という作品を創作した。純粋に振付のこと、踊ることだけに集中が出来たのがとても良かったのを覚えている。(残念ながら、そのユニットはたった一回きりの奇跡的なものだった)

photo by 廣田達也

過去の作品を映像で見返すのが苦手な私は、この作品に関して見直す機会は殆ど無かった。ただ、ホドラーの絵画は様々な局面で見返すことがあり、その度いつも発見があるのだ。絵画に添えられる文章やタイトル、なかでも「パラレリズム」という手法を用いた作品はとてもダンス的で、影響を大きく受けた。

アーカイブ企画「私のリズムはどこ?」を始めてから半年が経過し、映像のアーカイブを続けるだけではなく、もう一度それらを「身体」に置き換えてみたいと考えるようになった。

映像に落とし込まれたリズムを身体に置き換えてみる。そんなことをやってみたいなと考えていた時に、再びホドラーの画集と出会う。

「無限へのまなざし 終わらないリズムの夢」

5人の女性が描かれた壁画のタイトルが目に入り、今の創作と何かが繋がった。私は映像アーカイブを通して、私自身の「踊りへのまなざし」を見つめようとしていたことに気付く。

それと同時に、「枠」という作品を思い出した。映像を見返しても、さほど面白い訳ではないのだが、(もっと練られたはずだと今になって思うし、この作品を映像で味わうのは結構難しい。)この構造を使いつつ新たな展開が出来ないかと考えるようになった。

「昼」という作品の中にはいくつかの習作があり、中でもその頃興味を惹いたのは、一番陰鬱な絵だった。四人の女が顔を隠したり(昼の太陽の眩しさに顔を隠している仕草と思われる)顔を伏せたりしている。

これら習作を経て最終的に作品で描かれた、中央の女性が両手を広げるポーズが、その習作には無かったのだ。何故か、その絵にその時は惹かれたのだ。

ただ、今はその絵をそのまま扱いたいとは思わない。こんなご時世という状況もあるし、私も40歳になり、もっと希望を描く瞬間が欲しいと思うようになった。5年という歳月の中で、驚くほど環境も身体も変化していることに気がつく。

こういう変化を、過去の作品を通して知ることが出来るのは面白いと思う。とは言え、具体的なことはノープラン…まだ再創作の一歩目を踏み出せてもいないのだが、とりあえず思考の整理として書き留めておく。

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