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愛するということ


人生最初で最後の同人誌ができたとき、解説を寄せて下さった方のところまで献本に行った。「もしも私が私のこの物語を一冊にまとめるのなら、どうしてもこの人に本を締めてほしい」と長年ずっと夢見ていたので、不躾な依頼をご多用の中引き受けていただけたときは本当に安堵したし、きっとこの方が解説を書いて下さるのではなかったのなら、本にはしなかっただろうなと思った。お会いして、ご厚意に甘えて連れて行っていただいた食事処で、私の物語の話をぽつぽつとしながらこらえきれずに泣いたときに、小さくふるえるように私の心がそうささやいたのを、今でもよく覚えている。


エーリッヒ・フロム『愛するということ』を読み終わった。私の年齢よりも長い年月、世界的ベストセラーであるこの本について、今さら私が語るべきことなどないだろう。ただ、読みながら、手に取るずっと以前から、この本は私の傍らに置いてあったような錯覚をした。私は途方もないほどの長い時間、それこそ短い人生のほとんどのときで、ずっとこの本を読んでいたような気がする。
数年前、解説の原稿をいただいたときとよく似た感情を抱いた。愛するということ。「あなたはきっと半身をさがしているのだと思うよ、そんな感じがする」と、泣いている私に掛けられた、やわらかに打ち寄せる、水のような声を思い出す。あのときはそうだろうかと首を傾げたけど、物語を書き終えて数年が経ち、発行した本が全て私の手を離れ、それとともにあの物語が誰かに読んでもらう役割を終えたこの季節に、フロムの名著にめぐり会ってようやく、彼女の言葉が私の中にすとんと落ちた。




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下記は、フロムの著書を踏まえて、かつて私がweb上に発表していた作品について考察と内省をするものであり、当該作品をご存じではない方には易しくない文章になっています。詳細な要約の提示はしません。また、検索避けのため、作品名は公開しません。

※当該作品をご存じの方も、ご自身の解釈を大切にされたい場合には、閲読をお勧めしません。以前から公言している「物語は読み手による自由な解釈で構わない」という私のポリシーは一切変わりありません。本記事は、作品の公開を終了し、そのタイミングでフロムの著書に触れ、私と私の物語について、改めて思索を巡らせたいという個人的な記録です。

※ネタバレあります。

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夜明けを願った物語を振り返って

「あなたのために生きて、死ねるなら、とても幸せだわ」
 イェイエル河に分断された大陸の西側、大国クロンクビストの第二王子サディアスは、田舎の小国ヴェンネルヴィクの次期女王クラリッサの王婿候補として結婚を果たした。サディアスをあるじと仰ぐ女騎士アンジェリカは、二人が寄り添うさまを見つめながら、あるじの愛ある未来を夢見るのだが――。
 わたしたちを繋ぐのは、この罪と罰だけ。過去を救えないのなら、せめて願おうと思った。たとえそれが独り善がりな想いだとしても。
 王子と騎士の気狂いな恋。


私が書いた話というのは、きわめて端的に言うと、キリスト教的世界観を基盤にした西洋風ファンタジーで、不遇の少女時代と過去の忌まわしい出来事からあらゆるものに不信心である主人公のアンジェリカが、生と死のあわいを揺れ動きながら、異母兄サディアスへの気狂いな恋を昇華していく物語である。

アンジェリカが主人公と言っても、彼女のまなざしで語られる日々は全体の四分の一に過ぎない。物語は、異母兄のサディアス、それから、冒頭で彼の伴侶となる小国の姫君であるクラリッサ、クラリッサの従兄であるカイルの視点が入り交じって進む。「アンジェリカ」とは何者なのか、ふたりをつなぐ罪と罰とは何なのか、正しさとは、恋とは、愛することとは――。そのような問答を、私は、四人の視点でひたすら繰り返し書き綴った。三十八話という短い話数にも関わらず(一話ごとの文章量は五千から八千字で推移したので決して少ないとは言えないが)、休載や修正を何度も間に挟みながら、五年以上もの月日をこの話に費やしたのである。書いているときはいつも崖から身を投げるような気持ちで、もう嫌だ、つらいむり、という泣き言を延々と吐き出していて、恐らく周囲が想像していたように、自分でも完結するとは思っていなかった。まさか本にするなんて、口ではいくらでも言えても、夢のまた夢だったように思われる。
瘡蓋を剥がし、傷口を抉り、誰にも――自分自身ですらも――触れられたくない心のやわらかく脆く繊細なところを暴いてゆく。私はきっと、この物語を二度と書けない。この物語を書き始めた頃よりどれほど文章力や構成力が向上したとしても。彼らに向き合っていたときと同じくらいの熱量で、生きることの悲しみや苦痛を正直に告白できるはずがない。地獄のような作業だった。なぜこんないびつな話を思いついたのか私自身にも皆目見当がつかないほど、この話は深く絶望的で、そして、独り善がりな孤独が本当に頼りなく手繰り寄せた、果てなくうつくしい明日への希望だったのだ。



フロムから物語を再考する


0. 登場人物

アンジェリカ:
 主人公。サディアスに侍従する女騎士。
 王を弑逆した罪により破門され王家から離籍されたサディアスの異母妹。
 母親とは幼少期に死別している。
サディアス:
 大国の『第二王子』。アンジェリカのあるじ。
 王婿候補として、小国の姫君であるクラリッサに婿入りする。
 異母妹のために父を殺し、その罪を彼女によって庇われた過去を持つ。
クラリッサ:
 小国の次期女王である年若い姫君。
 結婚式の日に初めて相見えたサディアスに初恋をする。

フェビアン:
 大国の王。アンジェリカとサディアスの異母兄。異母妹に執着している。
ダグラス:
 サディアスの手により弑された父王。
 リーラを深く愛しており、彼女が亡くなった八年後、気を狂わせる。

ウィリアム:サディアスの実弟。
エディス:サディアスとウィリアムの実母。ダグラスの王妃。
リーラ:アンジェリカの実母。ダグラスの妾妃(公妾)。故人。


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1. ひとりでふたりからひとりひとりへ

 二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.154, ll.4-5)


フロム『愛するということ』を読みながら、私には、私の書いた物語について気づいたことがある。話のあらゆるところに対立構造があることと、話が進むにつれて一つ一つの事象の意味が転変してゆくことである。「転変」であるので、全く違うものに成り代わるのではなく、立場や見方が変化することで、同じ出来事の様相が移りかわっているということだ。

もともと、話の構成として、現在と過去を織り交ぜながら書いたものではある。アンジェリカに降り懸かった過去の「忌まわしい出来事」を追想しながら物語は進行する。けれど、現在が過去を乗り越え、未来へ向かうだけではなく、その流れとともに、「不信」は「祈り」へ、「依存」は「自立」へ、「死」は「生」へ、「夜」は「朝」へ、何より、「恋」は「愛」へと色彩を変えていることに、私は今さら気づいた。話の半ばで「あなたの心臓に生まれてきたかった」とサディアスとの同一化を望むアンジェリカに対し、終盤のサディアスは一つの強い願いを持ち、自らが傷つくことを恐れずに「共に生きるんだよ」と答えを出す。

「……あなたの心臓に生まれてきたかった」
 ぽつりとアンジェリカは言った。サディアスの心臓の丁度真上に、指を這わせながら。
「アンジェリカ」
「そうしたら、いつだって、寂しくならずに済んだのに。……離れる恐怖に怯えなくてもよかったのに」
 傷つけるばかりだった。そしてこれからも、傷つけてゆくのかもしれなかった。
「この不甲斐なさを死ぬまで許さなくていいから」
 ひどい男だと、いくらでも詰ればいいと思う。責め続ければいい。怒りも悲しみも、振り翳される小さな拳はいつだって甘んじて受ける。嫌われても、憎まれることさえ仕方がないだろう。――それでもいい。
 手放さずに済むのならそれでもいい。
「生きてほしい」


アンジェリカとサディアスは、ふたりでひとつになることで襲い来る孤独を逃れたいという、互いの存在を互いに委ねたいびつな関係から、ふたりはふたりのまま生きていく、個体としての孤独を受け入れた共存の関係へ、想いの形を変えるのである。そして、そうなってようやく、本当の意味で彼らは彼らの罪を理解し、わかりあい、不信心であったアンジェリカは「祈る」という行為へ至るのだ。祈りは、神への能動的な働きかけである。アンジェリカが祈る場面は、「救済を施してくれるだろう存在の」神に対しきわめて受動的であった最初の場面から、おのれの足で歩いていく、彼女の未来を予感させる象徴だろう。

 部屋の奥には祭壇があり、白い彫刻が飾られている。それは、神と人とを執り成すという、聖なる母の像だった。腕には赤子を抱いている。
 その彫像を目に留めたアンジェリカは、ふと、神は万人を等しく愛するのだという、聖書の教えを思い出した。だが、祭壇上にいる美しい聖母は、蕩けるような柔らかさで目を伏せて、自らが抱く赤子だけをただその瞳に映している。
「……見ていないわ」
「アンジェリカ」
「いいの、いいんです、神様に愛されたいわけじゃない」
 縋りついて、瞑目した。ふと、懺悔は、と厳粛な面持ちで問い掛ける教誨師が思い出された。アンジェリカは初めて、罅割れた祈りの詞を口にする。それは役立たずの咽喉に張りつき、声にはならずに消えてゆく。
 幼い日、恋をした。無垢であったはずのそれは時を経て汚れ、傷つき、血と罪に塗れたものになった。わたしたちは悲しみの上を歩いている。きっと何度でも、ふたりでいる限り、その罪は消えないものなのだと思い知る。けれどそれでも。全てが清らかに洗い流された、そんなきれいなものにはなれなくても。
愛は能動である。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.190, l.15)


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2. 信念のある愛

 愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.184, ll.4-6)
 さらに、信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.187, ll.11-12)


物語の転換になる場面はいくつかあるが、フロムの論考を意識したとき、信念のある愛の端緒になるのは、アンジェリカとサディアスの弟であるウィリアムが兄へ向けて言い放った「貴方が貴方を蔑ろにするから、アンジェリカは傷ついて泣くんじゃないですか!」という台詞かもしれない。

「本当に――莫迦ですか! 貴方は!」
 さらには足を踏み鳴らす音がして、サディアスは目を開けた。背を浮かせて弟を見遣る。ウィリアムは拳を握り、肩を震わせ、身体中に憤怒を滾らせていた。
「拗ねるのもいい加減にして下さい! そうしてご自分を卑しめたって、何にもならないじゃないですか!」
 サディアスは茫然とウィリアムを見返す。末弟ゆえか賢しく、感情表現さえ計算尽くの振る舞いをするウィリアムが、それこそ子どものように感情を剥き出しにしている。それどころか、どうかすると今にも泣き出してしまいそうだった。怒りを燃やしながら揺れる碧眼を、サディアスは呆気に取られて凝視する。
「どうしてアンジェリカが一番嫌がることをするんです。貴方が、貴方を蔑ろにするから、アンジェリカは傷ついて泣くんじゃないですか!」


この言葉に直接的な反応をするのはサディアスだけだが、ウィリアムがそれを吐き捨てるとき、傍らにいたクラリッサが聞いていたのは間違いなく、その後、サディアスの年若い伴侶であった姫君は夫を張り手して叱咤する。ここは明白にわかる「少女」から「女性」への変貌の瞬間なのだけれども、「憧憬」が「現実」になり、それとともに彼女が「自尊心」と「自他へ向ける愛」を獲得する場面でもある。クラリッサは、サディアスが自分に「昔日のアンジェリカの姿」を重ねていることを知っており、当初はそれに成り代わろうとするのだが、自尊心の獲得と同時に、他者の模倣で仮初めの恋を手に入れようとする、自らの欲望と決別するのだ。

「いやよ」
 クラリッサははっきりと口にした。目蓋の裡で微笑むアンジェリカに向かって。――自分に向かって。
「わたくしは、あなたの代わりにはならないわ、アンジェリカ」


そして、自己が自己であることの孤独と自尊心を重んじ、「愛されること」から「愛すること」へ望みを変えるのがクラリッサであるとするなら、自らの飢餓から他者に擬態し、抑圧と支配によって「愛のようなもの」を得ようとしたのが兄のフェビアンである。フェビアンは、物語の中で、自身が抱える問題を何一つ克服することがない。なぜなら彼は、自己理解をするつもりがなく――だから彼の問題は彼の視点では可視化されない――、おのれの孤立を意識しない。フェビアンは愛に懐疑的なのではなく、そもそも愛について考える必要さえ感じていないのである。なぜ餓えるのかを理解しないので、だからこそその欲求は満たされることがない。

「私を死に至らしめる瞬間があるとするのなら、私が絶望するそのときだけさ、親愛なるミシェーラ」


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3. 愛するということ

フロムは「愛の理論」の中で、母親と父親の愛の違いについても論述している。母親の愛は無条件だが、父親の愛の原則は条件付きであり、いずれの場合にも肯定的な側面と否定的な側面があるとフロムは言う。
まず、母親の愛の否定的な側面について考える。

母親の愛があるのは神の恵みのようなものであって、もし母親の愛がなく、人生が真っ暗になってしまったとしても、どんなことをしても創り出すことはできない。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.67, ll.7-9)


この物語において、母親は二人登場する。アンジェリカの母親であるリーラと、サディアスとウィリアムの母親であるエディスである。
リーラの愛の本性は、彼女が既に死別していることから、話の全体を通して不鮮明だといえよう。リーラの名前は始終、父親の記憶を通してアンジェリカの中で残響するものの、リーラ自身は不在を貫き、その不在こそが主人公を庇護する「無償の愛」の欠如を暗喩していた。アンジェリカの意識下には無条件の愛は存在し得ないので、彼女の「サディアスのための行動」には常に犠牲や交換が付きまとう。
一方で、一見、全ての母親の役割を担ったのは異母兄の母たるエディスである。エディスは自らの息子を慈しんでおり、その愛情深さゆえにサディアスを救うためにアンジェリカに罪を唆す。そして、サディアスとアンジェリカが離ればなれになる場面では、「サディアスは幸せになります。貴女の望み通りに」とアンジェリカに諭しながらも、エディスは強張った表情をするのだ。フロムに依拠すればこれは非利己的な母親の愛であり、エディスの「子どものため」という愛の裏には、いつも彼女自身の願望が透けて見える。アンジェリカはそのことに気づいているし、実の息子の一人であるウィリアムはそれを非難するが、エディス本人もまた、自己投射した親の愛を薄々自覚しているのである。
では、父親はどうか。

「私がおまえを愛するのは、おまえが私の期待にこたえ、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」というのが父親の愛の原則である。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.71, ll.14-15)


父親の愛はこの物語の中で最も難しいもののように思われる。そして核心でもある。アンジェリカとサディアスの父であるダグラスは、愛について思索し、懊悩し、けれども娘を陵辱するという過ちを犯したことで、息子を煽り立ておのれの罪を裁かせることを選ぶ。「おまえは私によく似てしまった」とダグラスはサディアスに言って聞かせ、王には向かぬよと呟く。淡々としたこの台詞は忠告とも、懺悔とも取れる。おのれの孤独を持て余し、妻を愛するようには娘を愛せず、息子を正しく導くこともできないダグラスの存在は、愛することの難しさを示唆するのだ。愛はあるのに、うまく「愛すること」ができない――彼の問題は愛の対象にあるのではなく、自身の「愛し方」にある。事実、彼は、回想の中でそのように独白している。――「愛や正しさについて考えないときはなかった」「このさまが愛なのか正しさなのか、今に至ってもわからないけれども」と。

 知らずぽつりと呼び掛けた声に、男は背後を振り返った。虫の羽音ほど果敢なく弱々しい声は、確かに聞こえていたのだろう。花びらが柔く重なるように目が合った。手が伸ばされる。それはとてもあたたかい手だった。指がたどたどしく頬に触れ、やがて手のひらが華奢な輪郭を覆う。逸らせず見つめた眸が、細められる。ひどい眼差しだった。本当にひどい眼差しだった。嵌められた碧眼はあまりにうつくしく。凝視する自分の眦を、ふと、親指が撫ぜ。
 男は、眉をたわめた。口角を痙攣させ、その薄い唇を動かす。
 ――瞬間、銀の煌めきが男を襲った。
 目の前が赫で染まる。


さて、先に、母親の不在による「無償の愛」の欠如により、アンジェリカの意識下には条件付きの愛しかないというふうに書いた。けれども、無償の愛――フロムの言葉では無条件の愛――は、果たして本当に存在しなかったのか。
話の中では、主人公の「アンジェリカ」という名前は皮肉な響きであるとせせら笑う描写が多い。名前と境遇が釣り合わず、いっそうそれが不幸で可哀想な響きを作り上げており、アンジェリカ自身も多くの場面でそのように思い込んでいる。ただ、サディアスが呼ぶときだけ、彼女は自分の名前に無性に清らかさを覚える。何の見返りも求められない、あたたかい光を感じている。――「無償の愛」である。けれども名前が孕む「無償の愛」は、サディアスが最初に与えたものではないことは、アンジェリカとサディアスふたりの物語が幕を下ろした後、父、ダグラスの回想の中で明らかになる。

 それからしばらく、ふたりでその子を眺めていた。窓からは変わらずに光が射し、照らされた子の瞳は無垢にきらめいている。きれいな、本当にきれいな、碧眼だった。
 わたしたちの天使《アンジェリカ》、と。
 やはり少しだけ泣きそうなふうで、彼女は優しく囁き、歌う。
(前略)母性愛の真価が問われるのは、幼児にたいする愛においてではなく、成長をとげた子どもにたいする愛においてである。(中略)
 成長しつつある子どもにたいする母性愛のような、自分のためには何も望まない愛は、おそらく実現するのがもっともむずかしい愛の形である。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.82, ll.4-6, p.84, ll.12-13)



私と私の物語

 愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.179, ll.7-8)


私は、この物語の全てはダグラスの言葉に収斂すると思っている――「愛や正しさについて考えないときはなかった」。フロムの『愛するということ』を読みながら改めてそのように思い、フロムの論考の全てが合致するわけではないけれども、本書の言葉を引用しながら考察を試みた。今読み返すと、物語の粗や文章の未熟さが目立つことに苦笑するのだが、それでもこうして、自身の思索の足跡を辿れることは得がたいことであり、苦悶しながらも書いてよかったなと思う。オンラインノベルとしては決してエンタメであるとは言えなかったが、書いている当時の私がいろんなことを考えたように、読者としてお付き合いしてくれた多くの方もそれぞれの見方や考え方を聞かせて下さったことは印象深い。もちろん、おもしろいとか悲しいとか率直なご感想も嬉しかったし、言葉にせずとも読みに来て下さった方々にも感謝している。
今回はフロムに依拠して読み直したけれども、明解はないし、私はそれを求めてもいない。作品の議論と評価は読者に委ねられるべきであるという私の意見にも変わりはない。作者がどのような想いを込めて書いたかということは、原則、読者には関係がないと考えている。ただ、他者の考えを聞くことは学ぶことであるし、きっと無数にある解釈の中に、一読者として――厳密にはそんなことはあり得ないわけだが――の数年後の私の思索を加えたくなった。これは物語の読み方ではなく観察である。今の私が当時の私を眺めている。物語は私そのものではないが、私の思考と切り離すことはできない。

一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。(フロム[新訳1991(原著1956)], p.167, ll.2-3)


この物語を書き進める中で、私は随分、物事の捉え方が移ろったのだなと思った。前半など、自己卑下と傲慢の描写が多くて笑ってしまうし、登場人物たちが信念のある愛を獲得していくにつれ、自己肯定と未来への希望の力強さが増していくのは眩しかった。暗澹とした世界で生きることを投げ捨てない言葉が、私を徐々に明るいところへ連れていく。――アンジェリカに出会った頃と同じ私は、きっともういないのだろう。アンジェリカが私の許を去ったように、私も私の歩みを進め、アンジェリカから遠ざかったのである。いつまでも同じありようではいられないし、そうであってはいけないのだ。私は今ここに別れがあることを喜びたいと思う、けれど、差し出がましくも作者として語ることが許されるのなら、閉じられた後のこの物語は、遠い日に懐かしさで目を細めるようなものであってほしい。なぜならそれが、物語の中で誰かを愛するために足掻いた人びとの願いなのだから。



参考文献:
エーリッヒ・フロム(鈴木晶訳)『愛するということ 新訳版』1991年(原著1956年), 紀伊國屋書店.

2019年8月7日初稿


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