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写真展「50年前の漁村を歩く」備忘録④

父の写真展を終えて、所感

鼻谷幸太郎モノクロ写真展「50年前の漁村を歩く」について、会期終了後にいただいた感想から考えたことと、反省です。



地元の交流施設での写真展

会場となった鳥羽大庄屋かどやは、国の登録有形文化財の建物で、地域の交流施設です。志摩半島と離島の7漁村で撮影された作品を選び、50年前の漁村を歩いているような気分で楽しんでもらうのが狙いでした。

実際、地元の方々が誘い合わせて来てくれた方々に会えました。在廊時にご案内をすると、お見送りの玄関でせきを切ったように昔の思い出をしゃべり始めた方もいて、なんだか圧倒されました。

そんなこともあり、「懐かしさ」について考えるようになりました。

七五三や結婚式、旅行のときの写真を家族で見るのと同じように、漁村のようにつながりの深い土地での写真展は、大きなアルバムを一緒に見ているような場になります。

年配者が、子どものころに遊んだ場所や、いなくなった人との思い出などを懐かしんで語り合い、子や孫に語り継ぐのは大事なことだと言われています。

三重大学海女研究センターなどが調査として毎年、開いている写真展は、まさにそれですね。父の写真も役に立っているのは、ありがたいことです。


ローズさんのメールから

地元の方が多いと見込んでいたのですが、記帳を見ると、予想以上に県外からも足を運んでいただいていました。さすがは観光地の鳥羽です。

なんと海外からもひと組、いらっしゃいました。ご本人の許可をいただいて、感想のメールの一部を紹介します。

" It reminds us that the work of providing food, caring for children, building and fixing things... These are all universal human activities. Your father's images capture these ideas for me."

「食事を与え、子どもを世話し、物を作ったり直したりする、これらは全て普遍的な人の営みです。あなたのお父さんの写真は、これらの" ideas"(=普遍的な人の営み)を捉えて私に見せてくれます。」

送り主はオーストラリアから来て鳥羽に滞在していたローズさんという女性で、視覚デザインなどがご専門の芸術家です。

それで今度は、このメールにあった「普遍的な人の営み」をキーワードに、今回の写真展の発信について掘り下げてみます。

父は伊勢新聞さんの取材に、「厳しい自然と向き合い働く漁村の人々の姿は、力強く魅力的」と答えていました。展示には、赤子を背負って船のロープを引く母親や、網を作ろう浜で浜で子どもに食事をとらせる家族、海藻を干す共同作業などの様子の写真を選んでいました。

ローズさんが、それを「普遍的な人の営みを捉えている」と評価してくれたわけです。つながりを感じました。

同時に、自分の勘違いに気が付きました。写真展の開始前日にフェイスブックに書いた以下の投稿です。

「今回は会場が古民家というのもあり、特にご年配の方には懐かしい風景を散歩するような気分で楽しんでいただけると思っています。若い方には外国の風景みたいでおもしろいかもしれません」

この中の、「若い方には外国の風景みたいでおもしろいかも」の部分、「若い方は、父の写真に共感するのが難しいだろう」と思っていたふしがうかがえます。

いやいや、お前(自分)はどういう立場なんだと。

伝える側と見る側の間にいるお前が、そこを見切るのかと。

失礼しました。


「懐かしさ」と「普遍的な人の営み」

では次に、「懐かしさ」と「普遍的な人の営み」を合わせて考えます。

世の中には絵や写真、映画や音楽、彫刻など、時代や国を越えてたくさんの人をうれしくさせたり、悲しくさせたり、慰めたりしてくれる作品があります。

エンタメと呼ばれて身近にあったり、アートと呼ばれてもてはやされたりしますが、どちらにしても、国境を越えて広まり、時代を超えて愛されるものは、何か普遍的なものを捉えているはずです。

例えを探してぼくの頭にまず思い浮かぶのは、ネパールの山奥が舞台のドキュメンタリー映画『世界で一番美しい村』(石川梵監督、2017年)です。

2015年の地震被害の救援に始まり、村の人々の心の再生を追っていく内容ですが、ぼくはこの中で、主人公の少年の家族が、村から歩いてふだんは離れて放牛をするお父さんに会いに行く素朴なシーンが好きです。うちの父は単身赴任もなく、ぼく自身の子ども時代とはかけ離れていますが、その映像には珍しさよりも、「懐かしさ」に近い感覚を覚えます。

「懐かしさ」は、家族のアルバムを開いたり、古い友人や、それに似た人に会ったりと、思い出と関係のあるものに触れて湧いてくるイメージがありそうです。でも、行ったことのない異国の風景の絵や、初めて聞いた音楽に感じていることだって、珍しくありません。

そんなとき、ぼくらはその絵や音楽、作品の中に、「普遍的な人の営み」のようなものを見ている。そう考えてみました。

ローズさんの言葉をまた借りると、「普遍的な人の営み」とは、具体的には「食事を与え、子どもを世話し、物を作ったり直したりする」といったこと。直接、写し取っていなくても、すぐれた芸術家は別の形にして上手に表現ができるのだと思います。あるいは作り手の無意識とか、偶然の場合も。


50年前のレンズの向こう

まとめです。

当たり前ですが(当たり前のことばかり言ってますが)、「懐かしさ」は、そのとき、その場の被写体にはありません。

父がカメラを構えて対峙していたのは、あくまで目の前で動く「厳しい自然と向き合い働く漁村の人々の姿」だったはずです。それが50年後、地域の方たちには「懐かしさ」として伝わり、海外からのお客さんの心にも届いたのだ、と理解します。

また、父の中にある祖父や祖母の姿、どこかの遠い風景の記憶が、レンズに重なっていたのかもしれない、と想像します。

いまの若い世代にはどう伝わるのか、は課題に残しました。機会が得られれば、今度は余計なことを言わずに聞き取りたいです。


<了>



写真展「50年前の漁村を歩く」備忘録は、以上です。お読みいただき、ありがとうございました。

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