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写真展「50年前の漁村を歩く」備忘録①

2024年7月に、父でアマチュア写真家の鼻谷幸太郎のモノクロ写真展「50年前の漁村を歩く」を開きました。

会期はすでに終了しましたが、備忘録を書きます。手作りで写真展をする方の役に立つかもしれません。まあ、何にしても読んでいただけたら幸いです。


写真展の概要

  • タイトル:50年前の漁村を歩く

  • 期間:2024年7月4日(木)~7月28日(日)

  • 場所:鳥羽大庄屋かどや(三重県鳥羽市)

  • 内容:モノクロ写真45点

  • 撮影時期:1968(昭和43)年~1975(昭和50)年

  • 撮影地:志摩半島と離島の7漁村(神島、坂手島、相差、安乗、波切、和具、越賀)


初日までの経緯

開催のいきさつ

会社員時代にアマチュア写真家として活動し、今年で84歳となった父にとって、2回目の個展となりました。

きっかけは、会場となった施設「鳥羽大庄屋かどや」からのお声掛けでした。施設のスタッフの方が鳥羽市立海の博物館で最初の写真展(2022年9月~2023年1月)をご覧になってのことでした。

それから間が空きましたが今年になって7月にやることと決まりました。準備を始めたのは4月ごろです。

会場

まず、父と2人で鳥羽大庄屋かどやを訪れて下見し、間取りや設備を確認しました。

鳥羽大庄屋かどやは、「旧広野家住宅」として国の登録有形文化財となっている日本家屋です。

城下町の鳥羽で江戸時代には庄屋、明治からは薬舗を営んだ富豪の邸宅で、現在はイベントや展示を行う地域の交流施設となっています。京風の赤壁やハイカラな色ガラスの内装、日本庭園などが特徴です。

父の写真展には、その2階の和室3間を使わせていただきました。展示が始まったときの写真を載せます。

企画段階

写真は父がセレクトしてレイアウトを構成、自分はキャプション作りや宣伝と、なんとなくで役割分担しました。写真展のタイトル(「50年前の漁村を歩く」)は、会場の立地やふだんの客層から、懐かしさを求めて来られる地元の方が多いだろうと予想し、そこに向けたストレートな言葉にしました。

5月に会場の下見に行きました。まだ別の出展をされている最中でしたが、写真のパネルを持ち込んで検討させてもらいました。

父は、家に帰ると、コピー用紙に和室の間取り図を手描きしました。写真はすべてスキャンデータです(フィルムは処分しました)。インデックスプリントを1枚ずつ切り抜いて、間取り図の上でレイアウトを考え始めました。

準備作業

展示は45点。うちA4版30点は父が家庭用プリンターで出力しました。A2版の3点は、前回の鳥羽市立海の博物館での写真展のときに、カメラのキタムラでプリントし、パネル貼りしてありました。

相差コーナーの12点(A3パネル8枚、うち4枚を2分割)は、三重大学伊勢志摩サテライト海女研究センターがパネルにしてくれていたものを借用しました。

写真ごとにタイトルと短い説明を載せるキャプションボードは、ぼくが作ってパネルにするつもりだったのですが、開始日が迫っても手つかずでした。父は待ちかねたのか、はがきの上下にプリントしたものを自分で作って来ました。家のプリンターで印刷し、半分に切ると2枚分になりました。

思い返すと、鳥羽市立海の博物館での展示のときには、説明文に気を遣いました。博物館で見せる以上、作品も事実を語る「資料」であり、間違いは当然、解釈に幅が生まれる表現もNGと考えていたからです。

しかし今回は、地域の交流施設での展示。父が書いた文は思いのほかくだけた感じでしたが、文意はなるべく変えず手直し(一部書き直し)させてもらうくらいにしました。

搬入・設営


開幕前日に、作品を搬入して設営作業を行いました。

額はガラスと黒の背景版で挟む形のもので、30枚以上を鳥羽大庄屋かどやからお借りできて、大変助かりました。

自宅でプリントを額に入れてあとは壁に吊すだけの状態にして、会場で運びました。現場で垂直にすると、納めたプリントがことごとくずれ落ちてしまいました。またばらして、プリントの裏側にすべり止めの厚紙を入れました。

壁に吊さないものは、ひな段に置いたり腰高の台を作って、見やすい高さに立て掛けました。

会場の照明は電球色で壁が赤茶色。窓からの光も入り、写真に赤や青の色がかぶります。ガラス面の額は反射します。そういう環境というだけで不満ではありません。モノクロだからか、会場にいると色かぶりはそれほど気にならなかったです(でも、展示風景の写真で見ると気になるものですね)。

そんな風に設置や調整をしていたら、地元紙の伊勢新聞さんが取材に来てくれました。記者クラブに持ち込んだプレスリリースを見てくれたのでした。

父が漁村を撮っていた理由や写真展の狙いを、率直に聞いてくれました。

取材から日を空けて7月10日に記事が載りました。記事の写真を見て父が汗だくで作業をしていたのに気がつきました。熱中症にならなくてよかった。

午前11時前から初めて、昼休みもはさんで作業が終わったのは午後時3半ごろだったと思います。鳥羽大庄屋かどやのスタッフさんたちも、長机を運んでくれたりひな壇を組んでくれたりと本当によく手伝ってくださりました。

そして翌日の初日、無事にお客さんを迎えることができたのでした。


▶ 備忘録②へ続く


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